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Man studying and taking notes with a Bible on a desk indoors.
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答えを与えるだけで終わらせない:相談者が学ぶことを助ける

私たちは、聖書のみことばの中にこそ、人が見つけることのできる最も尊い宝があることを知っています。だからこそ、相談者がみことばを深く学んでいけるように、励まし、導く必要があります。

学生時代、教科書を使った宿題で、巻末にたいていの答えが載っていたのを覚えていますか。そこを見れば、自分の答えが合っているかどうかをすぐに確認することができました。そしてもちろん、もし間違っていれば、答えを書き直したことでしょう。

答えを知ることは、確かに助けになります。そうすることで、自分が学んでいる内容を理解できているかどうかを確認できるからです。

しかし、あなたの友人の中に、もちろん、あなたのことを言っているのではありませんが、すぐに巻末の答えを見てしまう人がいたのではないでしょうか。その人は、学ぶべき内容をきちんと理解しているかどうかよりも、答えそのものや、ただ点数を取ることの方に気を取られていたのではないでしょうか。

もし「点数を取れるように、答えだけを教えてほしい」という姿勢で学んでいるなら、そこに本当の学びはあるでしょうか。点数を取るために、すぐに教科書の巻末へ向かう生徒は、次の段階の学びに進む準備ができているでしょうか。そのような学び方で、これから先の人生に十分備えられるでしょうか。

聖書カウンセラーとして陥りやすい誤りの一つは、相談者が自ら学び、発見していく過程を助け、導く人ではなく、単に「答えを一方的に与える人」や「情報を伝えるだけの人」になってしまうことです。

「人に魚を与えれば、その人は一日食べることができる。しかし、魚の釣り方を教えれば、一生食べていくことができる」ということわざがあります。日本ではあまり聞き慣れない表現かもしれませんが、これは、相手に一時的な答えを与えるだけでなく、自分で考え、学び、歩んでいけるよう助けることの大切さを表しています。

これは、聖書カウンセリングにおいて本質的に問われていることでもあります。あなたは、相談者を自分に依存させてしまうカウンセラーでしょうか。それとも、相談者が自らみことばを学び、神に拠り頼んで歩めるように助けているカウンセラーでしょうか。

知恵を養う

箴言は、1章から9章にかけて、父親が息子に語るいくつもの教えから始まります。それらのすべての教えの目的は、息子が知恵をもって生きられるように助けることにあります。

そこには、「性的な罪から遠ざかりなさい」「怠けずに勤勉に働きなさい」といった、はっきりとした分かりやすい教えが記されています。しかし、知恵ある者として生きるための明確な命令だけでなく、自ら進んで学ぶ者となり、知恵と悟りを追い求める者となるようにという力強い勧めも記されています。

「わが子よ。もしあなたが私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちに蓄え、あなたの耳を知恵に傾け、心を英知に向けるなら、もしあなたが悟りに呼びかけ、英知に向かって声をあげ、銀のように、これを探し、隠された宝のように探り出すなら、そのとき、あなたは主を恐れることをわきまえ知り、神を知ることを見出すようになる」(箴言 2:1−5)。

ここで、考えてみたい興味深い問いがあります。「もし父親が息子に知恵のある者として生きてほしいと願い、知恵ある者として生きるための実践的な教えを数多く語っているのなら、なぜ知恵を『銀のようにこれを探し、隠された宝のように探り出す』必要があるのでしょうか。父親は1章から9章にかけて、知恵とは何かをすでにはっきり語っていたのではないでしょうか。」

同じように、相談者が夫婦関係の問題や子育ての課題を抱えて助けを求めてきたとき、ただ聖書箇所を示し、それを実際にどう行うのかをはっきり説明して、終わりにしたり、次の質問に進んだりするだけで十分ではないでしょうか。

答えは、もちろん「いいえ」です。ただし、助けを求めてやって来たその人が、すでにかなり知恵のある人である場合は例外です。

もし箴言2:1−5がすでにその人に当てはまっているなら、あなたに助けを求めに来ること自体が、2節から4節のみことばを実践している姿なのかもしれません。その人は、ある問題について知恵を求め、深く掘り下げて探り続けてきたけれども、その探究をもう少し手伝ってくれる人を必要として、あなたのところに来たのかもしれません。もしそうであるなら、聖書箇所を示し、説明するだけで、その人にとっては十分な助けとなるでしょう。

しかし、カウンセリングにやって来る大多数の相談者に必要なのは、まず1節から4節に記されていることを実践できるようになるための助けです。そうして初めて、彼らは5節にあることを理解するようになっていきます。そして箴言3:7が教えているように、その理解は、彼らが「悪から遠ざかる」ための助けとなります。

第一の現実:多くの相談者は、聖書本文が語っていることをそのまま理解することに慣れていない

これは今日、非常に大きな問題です。とはいえ、いつの時代にもそうでした。ですから、「日の下に新しいこと」であるかのように、この問題を現代特有のものとして言い過ぎないようにしましょう。

使徒パウロも、その宣教旅行の先々で、聖書をよく知らない多くの人々に出会ったことでしょう。しかし、だからといって、パウロやその同伴者たちが福音を宣べ伝えることをやめたり、主を知る知識において成長するように勧めることをやめたりはしませんでした。この問題は、本来ならもっと成長しているべき教会においてさえ、明らかに存在していたのです(ヘブル 5:11–14参照)。

私がカウンセリングの中で最も頻繁に直面する聖書理解の乏しさは、聖書本文を深く考えず、表面的に読んでしまうことです。そこからいくつかのことを読み取ることはあるかもしれませんが、多くの相談者は、本文全体がどのようにつながっているかをじっくり考えたり、そこで何が起きているのかを理解しているかどうかを確かめたりしません。

たとえば、イザヤ50:10−11を見てみましょう。

「あなたがたのうちでを恐れ、主のしもべの声に聞き従うのはだれか。闇の中を歩くのに光を持たない人は、の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火の明かりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。このことは、わたしの手によって、あなたがたに起こり、あなたがたは苦悶の場所で伏し倒れる」(イザヤ50:10–11)。

私はすべての相談者とこの箇所を見るわけではありません。しかし、聖書を表面的に読むことが、相談者を助けるうえでいかに不十分であるかを示すには、この箇所はまさに最適です。

「光」と「暗闇」は、聖書の中で非常によく用いられるテーマです。そして多くの場合、「光」は義や善と結びつけられ、「暗闇」は悪や不義と結びつけられます。

しかし、本文をざっと表面的に読むだけなら、「暗闇の中を歩き」という言葉を見て、すぐに「これは悪いことだから、してはいけない」と考えてしまうでしょう。そして、「自分たちの火の明かりによって歩く」という言葉を見て、それは良いことだと思ってしまうでしょう。実際、多くの相談者が、この箇所をまさにそのように読んできました。

しかし、本文が実際に何を語っているのかを理解しようとして注意深く読むなら、この箇所における「自分たちの火の明かりによって歩く」ことは、決して望むべき歩みではないことがわかります。なぜなら、そのように歩む人々が神の御手から受けるのは、「あなたがたは苦悶の場所で伏し倒れる」という裁きだからです。

要点:私たちは、カウンセリングの課題や面談の時間を通して、相談者が聖書本文を注意深く読み、その意味を理解できるように励まし、促していかなければなりません。

第二の現実:多くの相談者は、聖書本文が語っていることを「理解」した時点で、そこで立ち止まってしまう

ここで「理解」という言葉にあえてカギカッコをつけているのは、聖書本文が語っていることを理解したと思っていても、まだ本当の意味で理解したことにはならない場合があるからです。

再びイザヤ50:10−11を例にとってみましょう。たとえば、ある相談者が、「暗闇の中を歩くときには、自分自身の火を灯すのではなく、神に信頼し、拠り頼むべきである」と理解したとします。それは確かに、主を恐れ、主のしもべ(メシア)の声に聞き従う者の姿として、本文が明確に語っていることです。しかし、相談者がその真理を言葉にできるからといって、そこで止まらず、本文が何を意味しているのか、またそれが自分自身にどう当てはまるのかをさらに考え続けているとは限りません。

1コリント8:1には、「知識は人を高ぶらせる」と記されています。もし相談者が本文を表面的に理解しただけで満足してしまうなら、そのような知識は、その人を高ぶらせるだけになりかねません。著者が何を意味しているのかを理解することは、確かに素晴らしいことです。そして、大切なことです。しかし、それだけでは十分ではありません。私たちは相談者が心を英知に向け(箴言 2:2)、銀のようにこれを捜し、隠された宝のように探り出すよう助けなければなりません(2:4)。

そのためには、カウンセラーが適切な質問を投げかけ、相談者の視線をもう一度本文へ向けさせ、考え、思い巡らすよう促す必要があります。これは、私たちの肉がしばしば抵抗することでもあります。たとえば、次のような質問です。

  • 「それでは、『暗闇の中を歩む』とはどういう意味でしょうか。それは、どのような状況を指していると思いますか。」
  • 「もし主に従う者が暗闇の中を歩むのだとしたら、クリスチャン人生にはどのような時期があると考えておくべきでしょうか。」
  • 「『自分で火を灯す』とは、どういう意味でしょうか。」
  • 「なぜ自分で火を灯して歩むことは、神にとって忌むべきことなのでしょうか。」

そして、質問を投げかけたときに彼らが正しい答えを出せなかったなら、おそらくさらに別の質問を投げかける必要があるでしょう。急いで答えを与えようとしてはいけません。相談者自身がみことばを読み、理解できるようになるよう、その学びの過程に沿って、彼らを導いていくのです。

カウンセラーであるあなたは、このような関わり方は時間がかかり、難しいものだと思うかもしれません。実際、その通りです。相談者もまた、それは時間がかかり、難しいことだと間違いなく感じるでしょう。その難しさに対しては、ジョン・パイパーの次のことばを心に留めてみてください。

「熊手でかき集めるほうが、掘るよりも簡単である。しかし、手に入るのは落ち葉だけである。もし深く掘るなら、ダイヤモンドを見つけるかもしれない。」[1]

ただの落ち葉、つまり表面的な知識では、相談者がサタンと肉による欺きの策略に対して固く立つ助けにはなりません。しかし、神の子どもたちが、銀を捜し、隠された宝を探り出すように、進んでみことばを追い求めるなら、神がみことばのうちに備えておられる宝は、実に驚くべきものです。

私たちは、今まさに相談者自身が直面している夫婦関係の葛藤や子育ての課題に、このみことばをどのように適用できるのかを、相談者自身が理解できるように導かなければなりません。

彼らは、まるで暗闇の中にいるかのように、どうしたらよいのか分からず、「どうすれば子どもが言うことを聞いてくれるのだろうか。ありとあらゆる方法を試したのに、何もうまくいっていないように思える」と途方に暮れているかもしれません。あるいは夫婦関係において、「私たちは何年もの間、この同じ問題で苦しんできた。結婚した当初からずっと同じ問題が繰り返され、状況は悪化する一方だ」と思い悩んでいるかもしれません。

それでは、このような聖書箇所は、その親や夫婦関係で悩む人をどのように助けることができるでしょうか。暗闇の中にいて、トンネルの先にまったく光が見えないとき、主に従う人は何をするのでしょうか。

その人は、神に拠り頼みます。自分自身のたいまつに火をつけ、暗闇から抜け出す道を自分で照らそうとするのではなく、みことばに堅くすがり、今日、神の国と神の義を第一に求めるのです(マタイ 6:33)。私たちは、主に目を向け、主に拠り頼むのではなく、自分自身の力や解決策に頼ってしまいます。

自分自身で火を灯し、暗闇から抜け出す道を切り開こうとする歩みは、時に「離婚をして、自分のことを『本当に』理解してくれる相手を見つける」というような、極端な形をとることがあります。

あるいはそこまで極端ではなくても、配偶者を避けて、テレビを観る時間を大幅に増やしたり、様々な趣味に没頭したり、遅くまで職場に残ったりする形をとることもあるでしょう。また、高価なプレゼントを贈ったり、贅沢な旅行に行ったりすることで、問題をお金で片付けようとする場合もあります。

みことばにしがみつく代わりに、人が自分自身の火、つまり自前のたいまつを灯そうとする方法は、実に数え切れないほどあります。

相談者は、神と神が備えてくださるものに拠り頼むことを学ぶ代わりに、暗闇から抜け出すためにいつも手に取ってしまう「お気に入りの火やたいまつ」が何であるかを、注意深く考える必要があります。そうすることで、自分が具体的に何をしてはならないのか、つまり自前のたいまつに手を伸ばすとは、自分の場合には具体的に何をすることなのかが分かります。そして、それに代わって何を身に着けるべきか、すなわち神のどの約束、どのみことばに頼るべきなのかも分かるようになります。

要点:あなたがすでに掘り起こした宝の数々をただ相談者に見せることによって、みことばのうちに隠されている宝を見出す喜びを、相談者から奪ってはいけません。本文の基本的な理解にとどまらず、さらに一歩深く踏み込み、相談者自身がみことばを深く掘り下げ、本文が実際に示している真実を理解し、それを自分自身の人生に明確に適用できるように助けてください。

結論

私の切なる願いは、神が相談者に求めておられることを、私たちカウンセラーも同じように彼らに求めることです。主は、ご自分の民が学ぶことに飢え乾いた心を持つことを望んでおられます。

もしカウンセラーが、相談者に聖書をただ「熊手でかき集める」ように表面的に読むままにさせ、自分自身が代わりに「掘り下げる」作業を行って、その成果だけを手渡しているなら、相談者が真に学び、成長することはありません。私たちは、彼らに自分で掘り下げる方法を教えなければなりません。箴言 2:1−4を実践して生きるとはどういうことなのかを、彼らに教えなければならないのです。

なぜなら、もし彼らが箴言 2:1−4を実践しないなら、主を恐れることを知ることはできず、その結果、私たちは彼らを本当の意味で助けることはできないからです。私たちの目標は、相談者がキリストに喜ばれる歩みをするよう助けることです。しかし、それは主を恐れることなしには決してできないのです。

これは骨の折れる働きです。時間と忍耐が必要です。そして、これは私だけかもしれませんが、相談者に与える課題を準備するには、多くの努力と思慮が必要です。これらすべてを絶えず祈りながら進めていきましょう。主を離れては、私たちは何もすることができないからです。

相談者が箴言2:1−4を実践できるよう助けるうえで、あなたが実際に役立つと感じた具体的な方法や工夫があれば、ぜひ聞かせてください。


[1] John Piper, When I Don’t Desire God: How to Fight for Joy (Wheaton, IL: Crossway Books, 2004), 126.

【翻訳に関する留意事項】 本記事の日本語訳は、認定聖書カウンセラー協会 (ACBC)の許可を得て作成されました。ACBCは本翻訳の作成を承認しておりますが、翻訳の正確性、完全性、あるいは表現の適切性については、一切の責任を負いません。 内容に相違がある場合は、英語の原文が公式な正本として優先されます。原文はこちらからご覧いただけます。

Translation Disclaimer: This translation is produced with permission from the Association of Certified Biblical Counselors (ACBC). While ACBC has granted permission for this translation, they are not responsible for the accuracy or quality of the translation. The original English text remains the official version and can be found here: Don’t Dispense Answers: Helping Counselees Learn

聖書:新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

  • グレッグ・ウェッターリン(Greg Wetterlin)は、フェイス・チャーチ(Faith Church)の男性ミニストリー担当牧師であり、ACBC認定カウンセラーでもあります。

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