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すべての相談者のうちに希望を育む
信徒には、この世にあって確かな希望が与えられています。だからこそ、私たちは福音の真理に深く根ざして、互いを励まし合うことを学んでいかなければなりません。
これを言うのは心が痛むのですが、私が認定聖書カウンセラー協会(ACBC)の認定取得のための監督段階にあったとき、正直に認めるのが恥ずかしいほど、何度も失敗したことが一つありました。提出が義務づけられているケースレポートには、「このセッションで、あなたはどのように希望を与えましたか」という質問があります。私は何度も、心の中でこう思ったことを覚えています。「あれ……私は希望を与えただろうか。たぶん笑顔ではいたけれど……それで希望を与えたことになるのだろうか。」
この点におけるまぎれもない失敗を前にして、私は祈り、希望に満ちた聖書カウンセラーとなれるように主に願い求めました。しかしみことばを学べば学ぶほど、希望を与えることは単なる「役立つ道具」の一つではなく、聖書カウンセリングのいのちの鼓動であることが分かってきたのです。それどころか、希望は福音のいのちの鼓動でもあります。
私たちの向かいに座るすべての相談者は、その人がイエス・キリストにあって持っている希望、真の変化が可能であること、そしてキリストご自身がどのような状況においても共におられ、十分なお方であることを思い起こさせてもらう必要があるのです。
希望がなければ、人は絶望へと沈み込む誘惑を受けます(2コリント1:8-10)。しかし聖書が教える希望があるなら、相談者は生ける神が常に働いておられることを見出し始めます。神はあらゆる試練を通してご自分の子どもたちを聖め、強め、支えてくださるお方なのです(ローマ8:28-29、ピリピ1:6、ヘブル1:3、1ペテロ5:10)。相談者たちは神の視点から物事を見るようになり、神のご性質とみことばを通して、自分の人生を新たに捉え直すようになります。
本当の希望とは何か
この世ではしばしば、希望は単なる願いや漠然とした楽観、あるいは「物事は良くなる」と言い聞かせる意志の強さのように捉えられています。しかし、聖書が示す希望はそのようなものではありません。
海が深すぎて錨が海底に届かないとき、船ではしばしば海錨(シーアンカー)が用いられます(水中のパラシュートをイメージしてください)。私の理解では海錨は確かに船をある程度安定させますが、それでも船は嵐の影響を受け、特に海流には逆らえません。一方、私たちが「錨」と聞いて思い浮かべるのは、船を海底に固定するための錨です。
この世の希望は「海錨のような希望」に似ています。それは楽観的でもっともらしい言葉ではありますが、人を人生の嵐になおも翻弄されるままにしてしまいます。
たとえば、ある親が人に噛みつく子どものことで悩んでいるとしましょう。その親に対して、「自分の思い通りにならないからといって、大人になってもあちこちで人に噛みつく人はほとんどいません。お子さんのその行動も、時間が経てばおそらく収まっていくでしょう」と言ってあげるのは、助けになるかもしれません。その言葉は親にいくらかの希望を与えるかもしれませんが、それでもやはり海錨のような希望にすぎません。その行動の背後にある心の問題に実際に語りかける、聖書が示す希望ではないのです。
聖書が示す希望は、それとは異なります。それは、望ましい結果を期待することでも、単なる願望でもありません。変わることのない神のご性質と約束に基づいた、将来の祝福に対する確信ある期待なのです。それは、風や波、激しい海流に左右されることなく、海底にしっかりと固定される錨のようです。これこそが、聖書が幾度となく与えている希望であり、私たちの相談者が必要としている希望なのです。
詩篇42篇で、詩人が「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか」と叫ぶとき、彼は「これもいつかは過ぎ去る」などとは答えません。代わりに彼は「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め!」(詩篇42:5)と叫びます。
詩人は、前向きではあっても海錨のような言葉で自分を奮い立たせているのではありません。救いの岩である、変わることのない神に、たましいの錨をしっかりと降ろしているのです(詩篇42:5、9前半)。これこそが福音の希望です。神が偽ることはあり得ず、信仰によってキリストにしっかりと拠り頼む人々に対して、神の約束が変わることはありません。それゆえ、この希望は確かで揺るぎないものなのです(ヘブル6:17-19)。
約束された希望
主イエスは、天から「最後にはすべてうまくいくよ!」と叫ぶかのように、ただご自分の子どもたちの重荷をご存じであるだけのお方ではありません。むしろ、主イエスはご自身こそが答えであると約束してくださっています。この点に関して、いくつかの聖句が大切なことを思い出させてくれます。
- マタイの福音書11:28–30 —— 「わたしのもとに来なさい。……あなたがたを休ませてあげます。」相談者の問題に対する答えは方法や解決策ではなく、”ひとりのお方”です。相談者がキリストに信頼するとき、主は安らぎを約束してくださいます。主のくびきは負いやすく、主の荷は軽いのです。なぜなら主が、従順に歩むための力を与えてくださるからです。相談者が、主イエス・キリストにたましいの錨を降ろすことができるよう励ましてください。
- ローマ人への手紙8:28–39 —— 神は悪い状況をどうにか取り繕おうと慌てておられるわけではありません(哀歌3:37-38、イザヤ46:10-11)。神は相談者の困難のただ中で、ご自分の目的のために働いておられます。それは彼らをキリストの御姿に似た者とするためです。そしていかなる苦しみも、罪も、状況も、信徒を神の永遠の愛から引き離すことはできません。
- ピリピ人への手紙4:6–9 —— 神は単に平安を与えるだけでなく、ご自身を与えてくださいます。7節にある「神の平安」は、9節の「平和の神」と決して切り離すことはできません。希望とは単なる感情ではなく、ひとりのお方なのです。
このような聖句は、カウンセラーである私たちに大切なことを思い出させてくれます。相談者に聖書が教えていることを語るという目標を持つなら、ありきたりな気休めや浅い決まり文句を避けるべきだということです。代わりに、私たちは疲れ果てた人々に対して、心を込めて神のご性質と約束を指し示さなければなりません。
私たちは、「この診断なら、見通しは悪くありませんよ」とか、「お子さんは、今は一時的な反抗期を迎えているだけですよ」などと言って、安易に希望を与えたくなってしまうかもしれません。しかし、これらはすべて海錨のような希望にすぎません。
聖書が示す希望は、むしろ次のように語ります。
「どのような診断結果であろうと、またこの先に試練の嵐が備えられているとしても、あなたと共にいてくださる主イエスのうちに、希望と安らぎを見出しましょう(マタイ11:28-30)。」
「神はお子さんの一時的な反抗期さえも用いて、あなたをキリストの御姿に似た者とすると約束してくださっています。ですから共に悲しみ、どのように子育てをしていくべきかを具体的に話し合っていきましょう。しかしあなたのたましいの錨を、変わることのない主イエス・キリストのご性質に降ろしてください。そしてこの状況のただ中にも、主の愛の御手をどのように見出せるか、一緒に探していきましょう(ローマ8:28-39)。」
希望の模範
聖書が単に希望を定義するだけでなく、人生の最も暗い時に神にすがった実在の人々の人生を通して、その希望を鮮やかに描き出してくれていることを私は本当に感謝しています。
- 哀歌3章のエレミヤ —— 崩壊したエルサレムの瓦礫のただ中、極限の絶望に直面しながらも、エレミヤは神の変わらない愛と真実を思い起こし、そこに希望を見出しました。この箇所を深く学び、相談者のたましいの錨を、そこに示されている真理にしっかりと降ろしてください。
- 詩篇42〜43篇の詩人 —— 自分の沈み込んだ感情に耳を傾けるのではなく、彼は自分自身に真理を説き聞かせました。「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を」(詩篇42:11)。相談者に自分自身の声に聞き従うのをやめ、代わりに自分自身に真理を説き聞かせるよう教えてください。
- 2コリント4章のパウロ —— パウロは苦しめられ、途方に暮れ、迫害されていましたが、押しつぶされることはありませんでした。なぜでしょうか。パウロが苦しみを永遠の視点から見ていたからです。「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。」試練のどんな小さな部分も、決して無駄にはならないということを相談者に思い起こさせてください。主はそのすべての要素を用いて、私たちを来るべき栄光に備えてくださるからです。
ですからカウンセラーの皆さん、これらの箇所を深く学んでください。聖書が示す希望を描いている他の箇所も注意深く探し、必要なときにすぐに希望をもって仕えることができるよう、自分の聖書に印をつけておきましょう。
最後に、面談を終える前には必ず、相談者のたましいの錨を主イエス・キリストにある希望にもう一度しっかりと下ろすことを心に決めてください。相談者に錨のように揺るがない希望を示すことは、本当に彼らを助け変えてくださるのはあなたではなく、神ご自身であることを、改めて思い起こさせることにもなります。神は世界の基が据えられる前から、キリストにあって私たちを選んでくださいました。そしてみこころにより、ご計画のままをみな行われるお方です。それはキリストに望みを置く私たちが、主の栄光をほめたたえる者となるためなのです(エペソ1:3-14)。
【翻訳に関する留意事項】 本記事の日本語訳は、認定聖書カウンセラー協会 (ACBC)の許可を得て作成されました。ACBCは本翻訳の作成を承認しておりますが、翻訳の正確性、完全性、あるいは表現の適切性については、一切の責任を負いません。 内容に相違がある場合は、英語の原文が公式な正本として優先されます。原文はこちらからご覧いただけます。
Translation Disclaimer: This translation is produced with permission from the Association of Certified Biblical Counselors (ACBC). While ACBC has granted permission for this translation, they are not responsible for the accuracy or quality of the translation. The original English text remains the official version and can be found here: Instilling Hope in Every Counselee
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