自分のことを「考えすぎるタイプ」だと言う人の話を、あなたも聞いたことがあるでしょう。もしかすると、あなた自身もそう自称したことがあるかもしれません。たとえ自分をそう呼ばなくても、「今、自分は考えすぎている」と認める人もいます。この言葉は、今の社会、特に若い人たちの間で、すっかり一般的な言葉になっているようです。それは単なる呼び名や行動にとどまらず、今では一つの性格的特徴のように扱われています。パーティーなどで話題にすれば、少し同情されながらも笑いにつながる、ちょっと面白い「個性」にさえなっているのです。

私たちクリスチャンは、このような呼び名を受け入れてよいのでしょうか。それを、ちょっと変わった個性として認めてよいのでしょうか。それとも、これは聖書が罪と呼ぶものを、別の言葉で言い換えているだけなのでしょうか。この世は、罪を聞こえのよい言葉で言い換えようとします。そして、「考えすぎ」という言葉も、そうした言い換えの一つなのです。では、この言い換えの背後には何があるのでしょうか。それは、思い煩いという罪です。

辞書によれば、「考えすぎ」とは、あることについて過度に考えること、または、助けになるどころか害になるほど、考えたり分析したりすることに時間をかけすぎることです。言うまでもなく、考えすぎは何の益にもならず、その状況に対する不安や懸念をさらに募らせるだけです。また、考えすぎはしばしば、他人の心を分かったつもりになる、喜びを失う、神から与えられている責任をなおざりにする、怠惰になる、感情を罪深い形で表に出す、人との関わりを避ける、といった罪深い行動につながります。

思い煩いや不安が罪であることは、聖書から明らかです(マタイ6:25-34、ピリピ4:6)。これらの聖書箇所から、「考えすぎ」は思い煩いの表れの一つであることが分かります。それは、自分中心の浅い思考の悪循環であり、神の約束を信頼することを妨げます。「考えすぎ」という呼び名は、実態を覆い隠すものです。この言葉は、まるでその人が人生の現実について深く考えているかのような印象を与えます。

しかし実際には、自分は考えすぎていると言う人は、考えすぎているのではなく、むしろ考えが足りないのです。そのように言う人は、何が真実であるか、神が何を語っておられるか、また神がどのようなお方であるかについて、往々にして十分に考えていないのです。

思い煩いや不安、考えすぎは、人生の「もし〜だったらどうしよう」という仮定に心をとらわれ続けるものです。そのような仮定に心を置き続けることは、真実に心を留めることではありません。聖書は私たちに、真実に心を留めるように命じています(ピリピ4:8)。もし人が現実と真実について本当に深く考えるなら、その思考は、神の約束、神のみことば、神のご性質、そして神がどのようなお方であるかへと導かれるはずです。神は、現実と真実のうちにおられる方です。偽りに心を置くことは、神の真理から離れたところに心を置くことです。

結局のところ、考えすぎる人は、自分の状況について考えすぎているのではありません。むしろ、十分に考えていないのです。もしあなたが物事を最後まで考え抜くなら、必ず神を礼拝し、信頼するところへと導かれるでしょう。なぜなら、神はすべてのもののうちにもおられる方だからです(エペソ4:6、コロサイ1:17)。

どのような状況にあっても、クリスチャンは自分の状況をキリストに照らして考え、キリストに従わない思いを退け(2コリント10:5)、自分の思い煩いをすべて神にゆだねるべきです(1ペテロ5:7)。考えすぎとは、自分の思いや懸念、思い煩いを、本来置くべき場所、すなわち神の御手の中に置いていないことです。考えすぎは、「神よりも自分の方が未来を見通し、それに対処できる」と言っているようなものです。

では、考えすぎる人はどうすべきでしょうか。まず、考えすぎを罪として告白することから始めてください(1ヨハネ1:9)。さらに、私たちはそれを罪としてはっきり認めることを恐れてはなりません。それを罪と認めないなら、変えられる力を失ってしまいます(箴言28:13)。

イエスは、あなたの過ちや、ちょっと変わった個性、性格的特徴のために十字架で死なれたのではありません。主はあなたの罪のために十字架で死なれました。そして、回復と贖いを約束し、内住の聖霊によって罪に打ち勝つことができるよう助けてくださることも約束しておられます(ガラテヤ5:16-17)。これらはすべて、あなたの罪のために神が与えてくださっている約束です。しかし、それを罪として認めないなら、その力はあなたのものとはなりません。

それを罪と認めることには、真の自由があります。もしそれを罪と認めないなら、残された選択肢は、自分を「被害者であり続ける者」と位置づけることだけです。そこには何の希望もありません。この世と世俗的な心理療法が与えるのは、希望ではありません。ただ症状を管理する方法だけです。

告白した後、考えすぎる人はみことばに浸り、思いを新しくされる必要があります(ローマ12:2)。あなたの思いがみことばで満たされているなら、不安に陥りそうになるときにも、あなたの思いはみことばを思い巡らすようになります。神の真理のうちにとどまっていなければ、真実に心を留めることはできません。神の約束を知ってください。神のご性質を知ってください。そして、神を信頼してください。

この問題で本当に恐ろしいのは、それが必然的にどこへ行き着くかということです。それは、恐れに身を明け渡してしまうことです。不安とは、将来への不満が姿を変えて現れたものです。不安を抱くとき、私たちは自分自身と神に向かって、「もし、ある状況が起こったり、逆に起こらなかったりしたら、自分は満ち足りることができない」と言っていることになります。そして同時に、「神ご自身だけでは、私にとって十分ではない」と言っていることにもなるのです。

私たちの思いが新しくされるとき、どんな境遇にあっても満ち足りることができると理解するようになります(ピリピ4:11)。何が起ころうとも、私たちがどこに行き着こうとも、神はなおも良いお方であり、真実で、恵み深いお方です。神は今もあなたを用いることができ、あなたも主とともに歩むことができます。自分の「権利」を手放し、神があなたのために備えてくださるものを信頼してください。

「考えすぎ」は、クリスチャンにふさわしい呼び名ではありません。それは、ちょっと変わった個性などではなく、思い煩う心につけられた偽りの名です。自分は考えすぎるタイプだと思っているなら、実は、十分に考えていないだけかもしれません。

聖書は私たちに、物事を最後まで考え抜くよう求めています。そうするなら、私たちは自然と神のいつくしみに思いを巡らせるようになるでしょう。ピューリタンのトマス・グッドウィンは、的確にこう述べています。

「違いを生み出し、あなたの悔い改めを明らかにするのは、どのような思いが心にあるか、また何が心によぎるかではなく、それらの思いを心にとどまらせるかどうかである。多くのむなしい思いが信者の心を通り道とし、なすべき良い働きを妨げ、その人を邪魔しようとして心の戸をたたくこともある。それらの思いは、敬虔な人の心に押し入ってくることがあるかもしれない。しかし、そこに居座ることは許されず、そこで育てられたり、かくまわれたりすることもない。」[1]

ですから、クリスチャンであるあなたは、むなしい思いが自分の心の中で育てられたり、かくまわれたりしないことを選ぶことができます。むしろ、キリストの栄光に思いを留めることを選んでください。それは、この世においても来るべき世においても、信者に与えられた最大の特権です。


[1] Thomas Goodwin, The Vanity of Thoughts: Discovered, with Their Cure, in The Works of Thomas Goodwin, D.D., vol. 3 (Edinburgh: James Nichol, 1861), 512.


【翻訳に関する留意事項】 本記事の日本語訳は、認定聖書カウンセラー協会 (ACBC)の許可を得て作成されました。ACBCは本翻訳の作成を承認しておりますが、翻訳の正確性、完全性、あるいは表現の適切性については、一切の責任を負いません。 内容に相違がある場合は、英語の原文が公式な正本として優先されます。原文はこちらからご覧いただけます。

Translation Disclaimer: This translation is produced with permission from the Association of Certified Biblical Counselors (ACBC). While ACBC has granted permission for this translation, they are not responsible for the accuracy or quality of the translation. The original English text remains the official version and can be found here: You’re Not Overthinking—You’re Uderthinking

聖書:新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

  • ネイサン・アダムス(Nathan Adams)は、フロリダ州ニューポート・リッチーにあるフェイスバプテストチャーチ(Faith Baptist Church)の牧師です。ムーディー神学校で文学士号と神学修士号を取得しています。ネイサンと妻の間には、2人の息子がいます。

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