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キリストとの結合:聖化への私たちの希望

キリストとの結合とは、キリストとクリスチャンが霊的に結び合わされていることであり、信者はこの結合を通して、救いに伴うすべての祝福にあずかる

 

聖書の中に「キリストとの結合」という教理を見出して以来、私はもうそれを見過ごすことができなくなりました。パウロの手紙では、「キリストにあって」という表現や、それに類する表現が200回以上使われています。そこにも、この教理を見ることができます。いのちを与えるぶどうの木につながる枝という、主イエスのたとえにもそれが表れています。

また、クリスチャンがキリストという土台の上に建てられる霊的な家の一部とされているという、ペテロの教えにも、それを見ることができます。さらに、教会を迫害することはキリストご自身を迫害することであると、主イエスがパウロに語られたことばにも、この真理が示されています。

シンクレア・ファーガソンが、「新約聖書が絶えず立ち返る真理とは、私たちがキリストと結合しているということである」と語ったのは、まさにそのとおりです。

聖書カウンセラーとしての私の目標の一つは、相談者がキリストとの結合の重要性を理解し、それを心から大切にすることができるよう助けることです。なぜなら、一度この真理が見えるようになると、もうそれを見過ごすことはできないからです。

キリストとの結合とは何か

キリストとの結合とは、キリストとクリスチャンが霊的に結び合わされることであり、信者はこの結合を通して、救いに伴うすべての祝福にあずかります。このことは、エペソ人への手紙1章3節にはっきりと示されています。

「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」

したがって、キリストとの結合は、私たちの贖いの一部分ではありません。むしろ、救いに伴うあらゆる祝福は、キリストとの結合を通して私たちに与えられるのです。選び、贖い、有効召命、信仰、罪の赦し、義認、子とされること、聖化、聖徒の堅忍、そして栄化といった、救い全体を形づくるさまざまな祝福はすべて、私たちが信仰によってキリストと結合しているからこそ与えられるのです(エペソ 1:3–14、ローマ 6:4–5、8:1、ガラテヤ 2:20、コロサイ 3:1–4)。

他者がキリストとの結合を理解できるよう、どのように助けられるか

まず最もよいのは、聖書そのものが用いている比喩から始めることです。これらの描写にはそれぞれ異なるニュアンスがありますが、どれもキリストとその民との深い結びつきを指し示しています。

主イエスは植物の比喩を用い、弟子たちはぶどうの木であるキリストにつながる枝のような存在であり、キリストを通して実を結ぶことができると教えておられます。パウロはからだの比喩を用い、私たちが聖霊によってキリストに組み入れられ、キリストのからだの一部とされていることを示しています。ペテロは建物の比喩を用い、私たちは要の石であるキリストの上に建てられる霊的な家の石であると述べています。

これらすべての比喩の目的は、「キリストにある」ことがなぜ必要なのか、また、どのような祝福をもたらすのかを、私たちが理解できるようにすることです。言い換えれば、キリストとの結合そのものが単なる比喩なのではありません。これらの比喩が指し示しているのは、実際の霊的な現実です。私たちは文字通りのぶどうの木や神殿ではありませんが、実際に、真の意味で「キリストにある」のです。

私がカウンセリングや人に教える中で、キリストとの結合を説明するうえで最も役立つと感じている例えの一つに、ローリー・シャイナーによる次の説明があります。

空港にいて、今まさに飛行機に搭乗しようとしている自分を想像してみてください。その飛行機は日差しあふれるメルボルン行きで、メルボルンはあなたが行きたい場所です。このとき、その飛行機に対して、どのような位置にいる必要があるでしょうか。

飛行機の下にいて、メルボルンまで飛んでいくことについては、その飛行機に従えばよいのでしょうか。それとも、飛行機に憧れればよいのでしょうか。飛び立つ飛行機を見ながら、「いつか私もあんなふうに飛べたらいいな」とつぶやくのでしょうか。

では、飛行機の後を追いかけるのはどうでしょうか。その飛行機がメルボルンに向かっていることは分かっているのですから、進んでいく方角をよく見て、その後を追えば、自分もそこにたどり着けると考えるかもしれません。

もちろん、大切なのは、その飛行機の下にいることでも、後ろからついていくことでも、飛行機に憧れることでもありません。あなたはその飛行機の中にいる必要があるのです。なぜでしょうか。それは、飛行機の中にいれば、飛行機に起こることがあなたにも起こるからです。

「あなたはメルボルンに着きましたか」という問いへの答えは、「その飛行機はメルボルンに着きましたか」という問いへの答えにかかっています。二つ目の問いの答えが「はい」であり、あなたがその飛行機の中にいたのであれば、飛行機に起こったことは、あなたにも起こったことになるのです。[1]

飛行機が目的地に到着すれば、あなたも目的地に到着します。もし飛行機が海に墜落すれば、あなたも海に墜落します。飛行機に起こることが、そのままあなたにも起こるのです。

同じように、キリストについて真実であることは、多くの点で私たちにも当てはまるようになります。私たちはキリストと非常に深く結ばれているため、キリストの完全な生涯は私たちのものとして認められ、キリストの死は罪に対する私たちの死となり、キリストの復活は、死からの私たちの霊的なよみがえりとなるのです。

キリストにあって私たちは義と認められます。それは、私たち自身が義だからではなく、キリストが完全に義であられ、私たちがキリストにあるからです。キリストにあって私たちは神に愛される子どもとされます。それは、私たちが生まれながらに神の息子や娘だからではなく、主イエスが神の御子であられ、私たちがキリストにあるからです。私たちには永遠の相続財産があります。それは、私たち自身が正当な相続人だからではなく、すべてのものを永遠に受け継ぐ方であるキリストと結合しているからです。

例を挙げればきりがありませんが、要点はお分かりいただけるでしょう。キリストにあるとは、本来ならキリストだけに属するはずの救いのあらゆる祝福が、キリストとの結合を通して惜しみなく私たちにも分かち与えられ、私たちがその祝福にあずかるということなのです。

キリストとの結合はカウンセリングにおいてどのような違いをもたらすか

相談者にとって最も明らかなことは、キリストにあって成長できるという希望があることです。具体的には、イエス・キリストにあって、あらゆる霊的な祝福が私たちに与えられているため、相談者はキリストにあって成長していくことを期待できます。その霊的な祝福の一つが聖化です。

キリストとの結合は、変化を可能にするだけでなく、変化を期待する根拠も与えます。変化は、私たちが願うよりもゆっくりと進むことが多いものです。それでも神はすべてのことを用いて、私たちをご自身の御子に似た者とするという目的を成し遂げておられるため、私たちはキリストの似姿へと変えられていくことを期待できるのです。

私たちが変化を期待できるのは、キリストとの結合によって、罪の奴隷状態から解放されているからです。使徒パウロは、私たちがキリストとともに死に、よみがえったのは、「もはや罪の奴隷でなくなるため」だと断言しています(ローマ 6:6)。すべての信者には、罪を犯さないことを選び、義のうちを歩む自由が与えられています。どのような罪深い習慣も、人生を支配するような罪も、ローマ人への手紙6章とキリストとの結合の真理が及ばないものではありません。

怒りに支配されやすい人は、プレッシャーのかかる状況でも罪深い欲望に振り回されることなく、自らを義のための器として神にささげることができます。ポルノを繰り返し見ている人は、罪に自分を支配させることを拒み、肉の欲望に従わないことができます。人を恐れる人も、他人の評価に支配されなくなることによって成長することができます。

キリストとの結合という栄光ある真理を繰り返し心に留め、自分自身のものとして受け止めていくとき、変化への希望はますます深まります。私たちが「キリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だ」と認めるとき、キリストの似姿へと変えられていくことを期待できるのです(ローマ 6:11)。

相談者に大きな希望をもたらす二つ目の意味は、すべての信者がキリストにあって同じ立場にあるということです。相談者は、「カウンセラーがすでに得ているものを自分も得るためには、キリストに従う道をずっと先まで歩んでいかなければならない」と考えてしまうかもしれません。しかし、それは決して真実ではありません。

人がキリストを信じたその瞬間に、救われ、神の栄光を現す生き方をするために必要なすべてのものが、キリストにあってその人に与えられています。私たちがキリストと結合しているなら、キリストが私たちのために成し遂げてくださったすべてのことにおいて、私たちはキリストと結び合わされているのです。

一方、キリストの外にいる限り、イエスが成し遂げてくださったみわざによって得られるすべての祝福も、その人には何の益にもなりません。キリストとの結合は、「すべてか無か」のどちらかです。あらゆる霊的な祝福にあずかるか、何一つあずからないかのどちらかなのです。

それゆえ、私たちは相談者が福音を真に理解し、キリストに信頼しているかどうかを、できる限り慎重に見極めなければなりません。真の変化がキリストとの結合に根ざしているなら、私たちは未信者の相談者には福音を伝えるよう努めるべきです。

悔い改め、信仰をもってキリストに立ち返らないなら、自分の生活を整えたとしても、真の益を得ることはできないのだと繰り返し伝えることができます。もちろんこれは、相談者が抱えている目の前の問題を無視すべきだという意味ではありません。しかし私たちは、永遠のいのちと真の変化のまことの源へと、繰り返し立ち返る必要があります。

カウンセラーにとって、キリストとの結合という教理は、律法主義的に規則を与えるだけのカウンセリングに陥らないために、私たちの助言をキリストのご人格とみわざにしっかりと結びつけなければならないことを意味します。私たちは、キリストとのいのちを与える結合から切り離された助言を与えないようにしなければなりません。

愛をもって真理を語るよう努める一方で、からだが成長し、成熟していくのはキリストによるのだということを、私たちは心に留めておく必要があります(エペソ 4:15–16)。キリストを欠いた助言は、一見知恵のように聞こえるかもしれません。しかし、それによって人が真にキリストの似姿へと成長することはできません(コロサイ 2:23)。

また、自分たちの助言を絶えずキリストに結びつけることによって、神こそが聖霊によってご自身の民を聖化される方であることを示すことができます。相談者には、実を結ぶのはカウンセラーである私たちとの関わりによるのではなく、ぶどうの木につながっていることによるのだと繰り返し思い起こさせる必要があります。

私たちは、真の変化をもたらしてくださる方を指し示す者にすぎないということを、へりくだって認めなければなりません。

「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです」(コロサイ 1:28)。

結論

誰かが時間を取って、ローマ人への手紙6章とキリストとの結合について私に教えてくれたときのことを、私は今でも覚えています。心に明かりが灯り、希望で満たされたあの瞬間を覚えています。 私たちのすべての霊的な祝福の土台となるような真理を説明し、適用するとき、相談者の心に明かりが灯るその瞬間に、ほんのわずかでも関わることができるのは、カウンセリングにおける大きな特権の一つです。他の人々がキリストにあって希望と変化、そして確信の源を見出せるよう助けることを、私たちの目標となりますように。


[1] ローリー・シャイナー(Rory Shiner)「Union with Christ」『The Briefing』(2011年6月1日)

 

【翻訳に関する留意事項】 本記事の日本語訳は、認定聖書カウンセラー協会 (ACBC)の許可を得て作成されました。ACBCは本翻訳の作成を承認しておりますが、翻訳の正確性、完全性、あるいは表現の適切性については、一切の責任を負いません。 内容に相違がある場合は、英語の原文が公式な正本として優先されます。原文はこちらからご覧いただけます。

Translation Disclaimer: This translation is produced with permission from the Association of Certified Biblical Counselors (ACBC). While ACBC has granted permission for this translation, they are not responsible for the accuracy or quality of the translation. The original English text remains the official version and can be found here: Union with Christ: Our Hope for Sanctification

聖書:新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

  • カイル・ガンゲル (Kyle Gangel) はサウスダコタ州カスターにあるサザンヒルズバイブルチャーチの説教牧師であり、米国認定聖書カウンセラー協会に属する聖書カウンセラーです。

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