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「コントロール」という問題を、聖書はどう捉えるのか
罪深く物事を自分でコントロールしようとするあり方を、どのようにキリストとそのみことばへ従う歩みへと変えていけばよいのだろうか
現代では、「コントロール」という言葉は広く知られています。私たちは、他の人が「支配的だ」と言われるのを耳にしますし、自分自身がそう言われることもあるかもしれません。
聖書カウンセラーとして、私たちは愛をもって真理を語るように召されています。しかし、人の問題を現代社会がどのように説明しているかを注意深く考えるときには、よく見極める必要があります。
本記事では、このよく見られる問題とその解決を聖書的に理解するために、「コントロール」という問題を聖書の視点から考えていきます。
「コントロール」は聖書的な概念なのか?
「三位一体」という言葉と同じように、「コントロール」という言葉もまた、聖書の中で特定の名称がつけられているわけではありませんが、聖書に見られる一つの概念を表しています。
一般的に「コントロール」と呼ばれているものは、心や願いや欲求に関わる問題であり、人を押さえつけるような態度、怒り、完璧主義、恐れなど、さまざまな罪の問題の根となっていることがあります。このように考えると「コントロール」は、怠惰な人や勤勉さに欠ける人の心にある、楽でいたい、快適でいたいという願いと比較することができます(箴言 21:25–26)。
「コントロール」のさまざまな現れ
「コントロール」はさまざまな形で現れるため、分かりにくいことがあります。
ある人は、支配的な夫の姿を思い浮かべるかもしれません。そのような夫は、家庭の中で、愛をもって仕える指導者というよりも、独裁者のように振る舞います(マルコ 10:42)。また、自分の思い通りにするために、巧妙な方法やより強制的な方法で周囲の人を操る人を思い浮かべる人もいるでしょう(ローマ 16:18)。
しかし、最も一般的なのは、物事が自分の思い通りにいかないときや、他の人が自分の考えるように行動してくれないときに、罪深く反応することかもしれません(1サムエル 18:8、マタイ 6:25、ルカ 10:41)。
したがって、「コントロール」の現れ方には幅があります。自分の思い通りにするために人を支配したり操ったりすることから、神が愛と知恵に満ちた摂理のうちに許しておられる、あるいはこれから許されるかもしれない状況(過去、現在、未来)に対して、罪深く反応することにまで及びます。
しかし、「コントロール」することが常に罪であるとは限りません。神のみことばと御霊に拠り頼みながら、神から与えられた責任を果たすために、ある程度の自制を働かせるよう求められている領域が、私たち自身の生活の中にはあります。
しかし、「コントロール」したいという願いが、神がご自身の子どもたちに責任として与えておられる範囲を、たとえ心の中だけであっても超えるとき、それは罪となり得ます。なぜなら、そのようなコントロールは、ほとんどの場合、自分自身の望みや計画を実現するために、自己中心的な仕方で行われるからです。
「コントロール」の背後にある心
「コントロール」がどのような形で表れているかによって、その人の心の状態は大きく異なって見えるかもしれません。しかし、高慢でコントロールしようとする心には、いくつかの共通した特徴があります。
- 「コントロール」は、根本的に神ではなく自分自身を信頼する。聖書はこのことについて繰り返し語っています(詩篇 4:5、箴言 3:5、イザヤ 26:3–4、エレミヤ 17:5–9、ローマ 12:16c、2コリント 1:9、1ペテロ 2:21–25)。自分自身を信頼する人は、限りある自分の理解に頼って、何が最善で、正しく、良いことなのかを判断します。そして多くの場合、状況がどのように展開すべきか、また人がどのように反応すべきかについて、具体的な期待を抱くようになります。
- 「コントロール」は、しばしば神のみこころや他の人の意志よりも、自分自身の意志を優先させることがある。その中で、自己中心的な判断や期待が形づくられていきます。この態度は、ゲツセマネの園で主イエスが祈られた姿勢とは正反対です。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように」(ルカ 22:42)。
- 「コントロール」は、神とその約束ではなく、状況に希望を置く。人は状況について、「これが最善で、正しく、良い」と期待するようになると、その期待通りのことが起こることを望むようになります。しかし、状況がその期待と違ったものになると、心はさまざまな形で苦しむことがあります(箴言 13:12、詩篇 42:5)。
- 「コントロール」は、自分を神の立場に置くことにもなり得る。コントロールの問題を抱える人は、自分の考えに頼り、実際の歩みの中で神の知恵に背を向けます。そして、自分自身の意志が最善であると信じ、それが実現することを望むようになります。このように神から自分自身へと向きを変えることは、意図的に神から離れる場合もあります(エレミヤ書 17:5)。しかし多くの場合、それは、神の摂理が自分の望んでいた通りに展開しないときに、怒り、落胆、抑うつ、不安、恐れなどの感情となって表れます(1列王記 19:1–18、詩篇 4:4–5)。
「コントロール」がもたらす結果(ガラテヤ 6:7)
- 神だけが真にコントロールできることを、自分でコントロールしようとして疲れ果てたり、落胆したりすること。
- 状況を「手放す」ことが難しいため、人を赦すことにも困難を感じること。
- 人生が自分の思い通りにならないときに、怒りや不安、失望、抑うつなどによって、さまざまな悪影響が生じること。
- 神や他の人に仕えることではなく、自分自身の願いを満たすことに意識が向くため、神や他の人との関係が悪化したり、壊れたりすること。
なぜ「コントロール」は神にとってが重大なのか
前述した意味において、「コントロール」は偶像礼拝です。それは、自己礼拝の一つの形です(2コリント 5:15)。人は自分自身の理解に頼り、何が最善だと考えるかを自分で判断するとき、すべてを治め、何が本当に最善であるかをご存じの神を信頼し、礼拝することに困難を感じるようになります(イザヤ 55:8–9、ローマ 11:33–36)。
創世記3章に記されている堕落の結果、人間には、自分自身を信頼し、何よりも自分の意志が実現することを望む傾向があります。そのため、私たちは互いに対立し、神にも敵対するようになります(創世記 3:16c、ヤコブ 4:1–10)。
「コントロール」が神にとって重要なのは、神が当然受けるにふさわしい礼拝と栄光を、神ではなく、「こうなるべきだ」と決めたことへと向けられてしまうからです。このような行動は、神とそのみこころを顧みず、自分自身とその願いを優先させます。
その結果、人は神や他の人への愛によってではなく、自分自身の判断や期待によって支配されるようになります。それに対して、クリスチャンの動機がどのようなものであるべきかについて、パウロは次のように記しています。
「というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです」(2コリント 5:14–15)。
ここでパウロが用いている「捕らえる」ということばには、「(人を)ある行動へと強く促す、あるいは駆り立てること。制約する、または動機づけること」という意味があります。「コントロール」について考えるとき、私たちは、この人生における動機や行動が、キリストがその生涯と死を通して示してくださった偉大な愛に方向づけられているかを確かめる必要があります。それは、「人生はこうあるべきだ」という自分の考えに従って生きることではなく、キリストの愛に動かされ、主のために生きるようになることです。
神に拠り頼み、信頼する
箴言3章5節にはこうあります。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。」
人生が期待通りに進まないとき、つまり、自分が最善で、賢明で、良いと思っていたようにならなかったとき、私たちは神に信頼を置かなければなりません。自分の身の回りで起こっていることが理解しにくく、困難に見えたり、あるいはどうしようもなく最悪な一日に思えたりするときであっても、神のご性質のうち少なくとも次の3つを黙想することは、神ご自身と神がお定めになったことを信頼し、へりくだって神に拠り頼み、礼拝する助けとなります。
- 主権者であられる神(詩篇 103:19)
- 知恵に満ちた神(イザヤ書 55:8–9)
- 愛に満ち、善であられる神(ローマ人への手紙 8:28–29)
信頼の聖書的な模範
創世記50章20節のヨセフの姿に、私たちは神を信頼する聖書的な模範を見ることができます。
兄弟たちに語ったとき、ヨセフは「あなたがたは私に悪を企みました」とあるように、人間的に見れば、何年も前に自分に対して行われた悪の責任が兄弟たちにあることを知っていました。しかし同時にヨセフは、「神はそれを……良いことのための計らいとしてくださいました」とあるように、究極的には神がすべてを治めておられ、最終的には、自分とイスラエルの益となるようにその悪をお許しになったのだと信じていました。
したがってヨセフは、起こったすべてのことを、神が主権をもって治め、また「多くの民のいのちを救うために」、知恵をもってそれらの出来事を計画し、ご自身の民に益をもたらしてくださったのだと信じていたのです。
ヨセフの生涯を思い巡らすとき、彼が忠実であり続けることができたのは、非常に困難な状況を、神の主権、知恵、そして善という視点から受け止めていたからだと確信します。そのことが彼をへりくだって神に拠り頼み、信頼する者へと導きました。ヨセフの人生は、神がどのような善をなさっているのか全く分からない時期もありましたが(創世記 42:21)、彼は自らの神を知り、主を信頼しました(創世記 45:5)。
詩篇9篇10節にはこうあります。「御名を知る者は あなたに拠り頼みます。主よ あなたを求める者をあなたはお見捨てになりませんでした。」
神と人に忠実に仕える
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように」(ルカ 22:42)。
神を信頼し、へりくだって神に拠り頼み礼拝する心は、コントロールしたいという願いから次第に離れ(詩篇 131)、代わりに、主と主の完全なみこころに忠実に仕えることへ目を向けることができます(ルカ 22:42)。
自分にとって望ましくない状況が生じたとき、コントロールの問題を抱える人は、「私は何を望んでいるのか」ではなく、「神は何を望んでおられるのか」「みことばに示されているように、私はどのように他の人を愛し、仕えることができるだろうか」と問わなければなりません。
そして、神がご自身の子どもたちに与えておられる責任の範囲を超えて、たとえ心の中だけであってもコントロールしようとする願いに抵抗し、へりくだって主と主のみこころに忠実に仕える必要があります(ピリピ 2:3–4、マルコ 10:45、1コリント 4:2、マタイ 22:37–40)。
結論
ここまで「コントロール」の背後にある心とその現れについて読み進める中で、私たちが脱ぎ捨てるべきものと、身に着けるべきものがより明確になったのではないでしょうか。もしまだ明確でなかったり、疑問が残っていたりするなら、自分が直面している具体的な問題が何であるか、またその代わりにキリストに倣う生き方を具体的にどのように実践していけばよいかを、さらに考えていく必要があります。
神の栄光のために悔い改めを具体的に実践していく中で、心(思い、欲望、希望、期待、拠り頼むものなど)と、手(外に現れる全ての行動)の両方を扱う必要があることを忘れないでください(1コリント 10:31)。
結びとして、葛藤を抱える人々の心の中で、私たちの偉大な神がさらに深く知られ、栄光をお受けになりますようにと祈ります。そして、神の摂理を信頼するだけでなく尊ばれ、神のご目的が受け入れるだけでなく、心からそれに仕えることができますように。
天でみこころがなされるように、地でもみこころがなされますように。 コーリー・テン・ブームが書いたように、「私たちがよく知っている神に、未知の将来を委ねることを決して恐れてはなりません。」
【翻訳に関する留意事項】 本記事の日本語訳は、認定聖書カウンセラー協会 (ACBC)の許可を得て作成されました。ACBCは本翻訳の作成を承認しておりますが、翻訳の正確性、完全性、あるいは表現の適切性については、一切の責任を負いません。 内容に相違がある場合は、英語の原文が公式な正本として優先されます。原文はこちらからご覧いただけます。
Translation Disclaimer: This translation is produced with permission from the Association of Certified Biblical Counselors (ACBC). While ACBC has granted permission for this translation, they are not responsible for the accuracy or quality of the translation. The original English text remains the official version and can be found here: Is the Term “Control” a Biblical Way to Describe a Seemingly Common Problem?
聖書:新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会


