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復讐はわたしのもの

個人的な復讐や報復を当然の正義として称賛する風潮が強まるこの世にあって、クリスチャンはそのような風潮とは異なる生き方をし、神が正しく治め、さばかれることに信頼しなければなりません。

何世紀にもわたり、数々の優れた文学作品や映画が、復讐と正義の区別が曖昧に見える問題を扱ってきました。例えば『巌窟王』は、自分が受けた不当な扱いに復讐しようとすることが、道徳的にどのような結果をもたらすのかを描いています。こうした物語は、人間に生まれつき備わっている正義感に訴え、悪事を働いた登場人物が「当然の報い」を受けるように描くのが一般的でした。しかし、物語の展開を通して悪人たちに因果応報がもたらされる従来の筋書きは、個人的な恨みを晴らそうとする「ヒーロー」が、自ら報復に乗り出す筋書きへと変わってきました。

彼らは、自分で決めたルールに従って償いを得ようとし、「それぞれが自分の目に良いと見えること」(士師記 21:25、箴言 21:2)を追い求めます。裁判官、陪審員、そして死刑執行人の役割を一人で担い、場合によってはレメクの「七十七倍」(創世記 4:24)さえかすんでしまうほど、自分自身で裁きを下します。その結果、おびただしい数の死者が出ることになるのです。

私たちの文化では、現実の社会でも報復はよいものとして扱われるようになっています。デジタル技術は、他者の評判を傷つけることで「仕返し」をする新たな手段を提供しています。人を「キャンセル」することには、社会的に排斥すること、ネット上でのいじめ、嫌がらせを目的として個人情報を公開することなど、公の場で相手に恥をかかせる行為が含まれます。組織や制度による不正を受けて、財産を破壊する暴動が正当化されることもあります。さらに、社会的・政治的に敵対する人々に暴力や悲劇が降りかかることさえ、喜ぶ人々が少なくありません。

それとははっきり対照をなして、クリスチャンは不当な扱いを受けたとき、世の考え方とは大きく異なる応答をするように召されています。パウロはこう命じました。

「だれに対しても悪に悪を返さず……愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの、わたしが報復する』主は言われます。次のようにも書かれています。『もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。』悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ 12:17–21)

クリスチャンである相談者も、私たち自身も、復讐について二つの重要な真理を覚えておく必要があります。一つ目は、自分が受けた不当な扱いを罪深い方法で「正そう」とする欲望が、今なお私たちの肉のうちに残っているということです。二つ目は、復讐にはさまざまな形があるということです。

仕返しをしたいという欲望

復讐を正当化することは、いかにも正しいことのように思えることがあります。特に、自分が被害を受けた側であるとき、「やられたらやり返す」ことは完全に正当なことのように感じられます。しかし「やり返したい」という思いは、神がご自分のかたちに造られたすべての人に与えてくださった、公正を求める感覚や願いを歪めたものです。聖書的な正義は「それぞれの人に、その人が受けるべきものを与える美徳1」です。一方、復讐は「害を受けたり、侮辱されたりしたことへの仕返しとして、個人的に相手に損害や害、屈辱、または罰を与えること2」と定義することができます。

大切に扱われたいと願っているのに、誰かから不当な扱いを受けると、「不公平だ」という思いが強くなります。そして、適切に応答する代わりに、自分が裁きを執行する者となって、正義をねじ曲げてしまいがちです。自分自身の正義の天秤を釣り合わせようと計算し、それに応じて復讐を実行するのです。

ここにも、何らかの「見返り」があります。相手に十分な代償を払わせた後には、満足感や、自分の方が正しかったと証明されたような感覚を覚えることがあります。正義が果たされたように感じるのです。しかし、それによって、心の中でくすぶり続ける苦々しさが消えることは決してありません。

復讐が見せるさまざまな顔

これが二つ目の真理につながります。復讐には、実にさまざまな形があります。すべての復讐が、『巌窟王』の主人公のように、何年も思い悩んで復讐を企てるようなものとは限りません。

例えば、数週間かけて練ってきた素晴らしいアイデアに夫から冷や水を浴びせられた妻が、その後、少しよそよそしい話し方に変わることもあります。その素っ気ない反応は、妻には十分正当なものに思えるかもしれません。夫にそのつもりがあったかどうかにかかわらず、彼女は傷ついたのです。そして、夫との関係の中で少し心を引き、距離を置くという選択は、夫を罰するための報復的な行動でした。

通常、カウンセラーはこのような状況で、いくつかの罪深い心の態度を指摘するかもしれません。寛容や忍耐の欠如、へりくだりの欠如、相手が受けるに値しなくても示す聖書的な愛の欠如、誤った態度を抑えるための知恵や自制心の不足、主に喜ばれる形で夫に敬意を示していないことなどです。

しかし、そこに罪深い復讐の要素があることには気づかないこともあります。実際、多くのカウンセリングの場面で、相談者は他の人に対する自分の反応の一部が、聖書の言葉で言えば「復讐心から出たもの」だったと知って驚きます。結局のところ、しばしばそこにあるのは、「あなたが私を傷つけたのだから、その代償を払ってもらう」という思いなのです。

復讐は、ちょっとした嫌味を言ったり、心の中で「言い返す言葉」をあれこれ考えたりするような小さな形で現れることもあります。実際には決して口にしない言葉を、心の中で言い返して満足するのです。先ほどの妻も、心の中でこう考えていたのかもしれません。「私のアイデアが悪いっていうの? じゃあ、あなたのあの案はどうなのよ?」

私たちは、自分の「やられたらやり返す」反応に十分気づかないまま、自分なりに仕返しをすると、すぐにそのことを忘れてしまうこともあります。しかし、それでも悪に悪を返していることに変わりはありません。

私たちは、相談者がこの罪深い行動に気づくよう助けるだけでなく、自分自身の生活からもそれを根絶しなければなりません。他の人に対する復讐は、次のような形で現れることがあります。

  • 陰口を言う、相手の評判を傷つける
  • 心を閉ざす、関わることを拒む、冷淡な態度をとる
  • 手抜きやいい加減な仕事をする、投げやりな態度をとる
  • 妨害する、足を引っ張る
  • ごまかす、盗む、嘘をつく
  • 言葉や他の方法で復讐することを空想する
  • 他の人たちとの関わりから、その人を締め出す、のけ者にする
  • 自分自身を傷つけ、その責任を相手に負わせる
  • 奉仕や手助けを差し控える
  • 相手が望んでいるものを壊し、相手が嫌がることをあえてする
  • 意図的に相手を怒らせる、相手の感情を逆なでする
  • 立場を逆転させ、相手から受けたのと同じ仕打ちを返そうとする
  • あざ笑う、からかう、皮肉を言う、相手を軽んじる

身に着けるべきこと:委ねることと赦すこと

復讐が本質的に誤りであるのは、復讐は私たちが行うべきものではないからです。むしろ、復讐は神のものであり、神は罪を犯すことなく、完全にそれを行われます。実際、「神はご自身のなさることによって正義を定義される」のです3。

神は地上の人々や権威を用いられることもありますが、それは決してその人自身の個人的な報復ではありません。神は「悪人が罰を免れることは決してない」(箴言 11:21)と約束しておられます。すべての罪は、必ず神によって正しくさばかれます。不信者の場合には、将来の永遠のさばきによって、信者の場合には、キリストが十字架でその罪を完全に負われたことによってです。

ですから、私たちが自分で復讐する余地はなく、復讐によって何かを得ようとする必要もありません。神は信頼できるお方です。だからこそ、私たちは慰められ、復讐から解放され、ひどく不当な扱いを受けたときにも、主の模範に従うことができます。キリストは「正しくさばかれる方にお任せになった」(1ペテロ 2:23)のです4。ここでの「任せる」とは、手渡す、引き渡す、他の者に委ねるという意味です。キリストは、ののしりや不当な苦しみを御父に委ね、「彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ 23:34)と願われました。

また、復讐は赦さない心の特徴でもあります。相手に代償を払わせたいという誘惑に駆られるとき、私たちはそれを神の御手に委ねることを選ばなければなりません。そして、相手を赦すのです。いわば、その代価を自分で負うのです。ルー・プリオロは次のように述べています。「誰かを赦すとき、あなたは非常に大きな代価を払うことになります。それは、その赦す過ちの代価なのです!」5

こうして私たちは自由に愛することができ、「人がした悪を心に留め」ません(1コリント 13:5)。聖霊の力によって、私たちは信仰をもって、「キリストにおいて私たちを赦してくださった神の恵み、慈愛、あわれみに基づき、他の人が私たちに対して負っている罪の負債はすでに支払われたと見なし、あたかもその人が私たちに対して罪を犯さなかったかのように接する」ことを選ぶのです。6

本当に喜びをもたらすのは、復讐ではなく赦しなのです。


[1] δικαιοσύνη(dikaiosynē、Strong’s NT 1343)、Thayer’s Greek Lexicon、Bible Hub、https://biblehub.com/greek/1343.htm

[2] P・ハルシー「復讐(Vengeance)」2014年12月31日、Biblical Counseling Database。

[3] ジョン・マッカーサー「悪の問題(The Problem of Evil)」2007年3月17日、Grace to You、https://www.gty.org/library/sermons-library/GTY161/the-problem-of-evil

[4] παραδίδωμι(paradidōmi、Strong’s G3860)、Blue Letter Bible、https://www.blueletterbible.org/lexicon/g3860/nasb95/mgnt/0-1/

[5] ルー・プリオロ著『Bitterness: The Root that Pollutes』(フィリップスバーグ:P&R、2008年)14頁。

[6] クリス・ライザー「愛、さらにすぐれた道:愛は人の悪を心に留めない(Love, the More Excellent Way: Love Does Not Take Into Account a Wrong Suffered)」第2部、2025年1月26日、https://sermons.gracemaryville.org/2025/250126_Love_Pt_11_Pt_2.mp3

【翻訳に関する留意事項】 本記事の日本語訳は、認定聖書カウンセラー協会 (ACBC)の許可を得て作成されました。ACBCは本翻訳の作成を承認しておりますが、翻訳の正確性、完全性、あるいは表現の適切性については、一切の責任を負いません。 内容に相違がある場合は、英語の原文が公式な正本として優先されます。原文はこちらからご覧いただけます。

Translation Disclaimer: This translation is produced with permission from the Association of Certified Biblical Counselors (ACBC). While ACBC has granted permission for this translation, they are not responsible for the accuracy or quality of the translation. The original English text remains the official version and can be found here: Vengeance Is Mine

聖書:新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

  • ジェシカ・モーア(Jessica Mohr)は、ACBC認定カウンセラーであり、テネシー州メアリービルにあるグレース・コミュニティチャーチ(Grace Community Church)で奉仕しています。

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