読了目安時間:14分

インタビュー企画
教会ではクリスチャン、社会では別の顔?
ー信者1%の日本で「聖書に生きる」ためにー
今回はインタビュー企画の第二弾として、今年5月のBCMW(Biblical Counseling Ministries Worldwide)主催のセミナーで講師を担当された吉本信頼さんにご協力いただきました。日本でクリスチャンとして歩むことの難しさ、社会問題にもなっている孤独、聖書カウンセリングが日本に必要なのかについて、ご自身の経験も交えつつ大変示唆に富んだお話をお伺いしました。
二つの世界で生きる葛藤を乗り越えて
ーーはじめにバックグラウンドについて教えていただけますか。
父が牧師をしており、牧師の子供として生まれたので、子供の時から教会に行くのが当たり前でした。福音を聞いて育ち、聖書の教えや神様の存在を疑ったことはありませんでした。ご存知の通り、日本はクリスチャン人口が1%程度だとよく言われます。キリストが十字架上で死に、復活したことや、聖書が誤りなき神の言葉だと信じている割合はもっと少ないでしょう。幼い頃から聖書的な教会に通えたことは、本当に祝福だったと思います。
ただ同時に小さい頃からいつも二つの世界に生きている感じがありました。教会や家ではクリスチャンの価値観と文化の中に生きている。でも平日学校に行くと、全く異なる世の文化の中で生きていかないといけない。クリスチャンは、この世では「旅人、寄留者なのだ」(1ペテロ2:11)と聖書に書いてありますが、子供ながらにそれを経験していたように思います。普通の公立の学校に通いましたが、クラスでクリスチャンはいつも自分だけでした。サッカーをやっていたのですが、日曜日は教会に行くので試合に行くことができない。試合があるたびにコーチに「行けません」って言わないといけない。友達から「なんで来ないの?」と言われてもその説明に窮するのですよね。
社会人になってからは、二つの文化と二つの価値観で生きる傾向がより強くなっていきました。報道機関で記者をしていたのですが、記事を書くために朝から晩までニュースを追いかけて走り回り、時間と思考をほとんど世の中のために使っていました。でも神様は守ってくださっていて、記者として働く中で自分の心に葛藤が生まれはじめたのです。聖書を読む中で自分の罪深さが深く示され、悔い改めに導かれ、クリスチャンとして自分がどのように生きるべきかを考え始めました。最終的に牧師になる決断をして、社会人8年目で会社を辞めました。
ーーとても大きな決断でしたね。
実は決断をするまでに二年かかりました。名の知れた報道機関の記者という楽しくやりがいのある仕事をしていたので、辞めたくなかったのです。記者として活躍して、神様の栄光を現すこともできるのではないかと言い訳もたくさん考えました。でも現実は本当に忙しく、記者として働きながら証を立てることができるほど自分は強くない。記者として神様の栄光を現すのは、言うのは簡単だけど現実はとても難しい。東京で働いていたときに通っていた教会で同年代の人たちとの交わりに恵まれ、信じた人たちが集まる群れである教会の働きを通して、神様の栄光を現したいと思うようになりました。結局、記者を続けても牧師をやってもどちらも大変なのですよね。牧師の子供なので牧師がどんなに大変かもよく知っていましたし。どちらも大変なのであれば、神様のためにしんどい思いをしたほうがよいと思ったのです。
孤独を研究する理由
ーー今はどのような学びをなさってますか。
会社を辞めた後、渡米し神学校で牧師になるための訓練を受けました。私の関心は聖書そのものにあり、牧師になりたいし、説教者になりたいので聖書を正しく理解したかった。ただ同時に聖書の教えを単に知識として知るのでなく、実生活に適用して「聖書に生きる」ことが非常に大事だと目が開かれたのです。聖書カウンセリングは、聖書の教えをいかに実生活に適用するかをうまく言語化していますよね。そこで最初は計画していなかったのですが、一年間余分に学び聖書カウンセリングの修士号を取得しました。
現在は博士課程に進んで聖書神学の勉強をしています。研究テーマは孤独です。自分がクリスチャンとして感じてきた孤独もありますが、世界でも日本でも孤独は大きな社会問題になっています。日本では若者の引きこもり、中高年男性の引退後の孤独、独居老人の孤独死などがあり、子供も大人も居場所がなく孤独を感じている。それがゲームやお酒などの依存症にもつながっていると思います。孤独を聖書からどう見ればよいのか。なぜ人間が孤独になってしまうのか。そこにどのような解決策があるのか聖書から探究したいと思っています。
ーーとても興味深いテーマですね。
聖書を読んでいくと孤独は決して小さなテーマではないのです。神様がなぜアダムだけでなくエバを造ったのか。神様ご自身は三位一体の中で関係性を享受されている方であって、人間は神様を礼拝し、神様と関係をもつことができる存在として造られた。しかし人間が神様に反逆して罪が入り、あらゆる関係が壊れ始めた。人間と神様の関係もそうだし、人間同士の関係もそう。夫婦という最も愛し合うべき者同士ですら傷つけ合ってしまい、人間関係に疲れて孤独を愛するようになってしまう。モーセも、エリヤも、エレミヤも孤独を経験しました。イエス様も罪を犯すことはありませんでしたが、人々から拒絶され、弟子に裏切られ、最後は十字架上で究極の孤独を経験されました。孤独という表現を使わないけれど、人間関係における様々な苦しみは聖書にたくさん出てくるんですよね。
要は聖書的な世界観に基づいて、孤独を再定義したいのです。神様が、どのように私たち人間を造られたのか、罪がそれをどのように破壊しているのか。そしてキリストにある神の恵みが、それをどのように回復することができるのか。孤独というテーマを通して、聖書的世界観を、特に人間関係という側面で追っていきたいと考えています。例えば病気をしても大怪我をしても、支えてくれる人がいたら乗り越えられると思います。でも問題が起きると、そのような親しい関係が破壊され始めるのです。病気になったら人が離れていくとか。関係性は神様の創造の中で非常に本質的な価値を持っていると思いますし、関係性の価値を見落としていることが、日本社会の問題の本質だと思います。仕事中心、キャリア中心、何か楽しむといっても趣味などのコトが中心になる。でも本質ってそうではないですよね。例えばどんなにおいしいご馳走を一人で食べてもおいしくないけど、しょうもない物でも本当に心の通った友達や家族と食べるとおいしいですよね。
ーー孤独は、牧師としての働きにもとても役立ちそうなテーマですね。牧師は色々な人の悩みに関わって励ましていく働きだと思います。「問題の原因は罪なのだから悔い改めなさい」と言われればそれはそうなのですが、その人が抱えている孤独を理解していただいた上で、罪を指摘された方が受け止めやすいなと思います。
罪の本質は、結局のところ神様との関係の破壊ですからね。全ての良いものの源泉である神様とのライフラインが遮断される結果として、孤独、満たされなさ、虚しさなど様々な問題が噴き出してくる。関係性に基づいて、聖書の真理をリフレーズしていけるとよいかもしれないですね。
日本への重荷
ーー今後、牧師として神様に仕えていく場所は、明確に日本なのだとお伺いしました。日本への重荷を具体的に教えていただけますか。
日本に限らず、あらゆる場所に霊的なニーズがあると思います。主の御心なら、あらゆる可能性にオープンです。ただ人間って非常に俯瞰的に物事を見たがるし、分析的に見たがる。ある意味で神の視点から物事を語りたがるのですが、でも人間って良くも悪くもそんなに高いものではないですし、神様に置かれた場所や文脈で人生を生きていくしかないと思うのです。それがイエス様が言われた、「明日のことまで心配しなくてよい、苦労はその日その日に十分ある」(マタイ 6:34)ということにつながるのではないかと思います。今日を大事にする。目の前にいる人を大切にする。私は日本人として生まれたし、日本の教会にもっと牧師が必要なことは間違いないし、日本人のクリスチャンが少ないのは間違いないし、日本人のクリスチャンが苦しいのも間違いない。神様が、私に何を望んでいらっしゃるかを考えたときに、やはり日本ではないかと思いました。
ーー日本でクリスチャンが生きていくにあたり、大変なことは何だと思いますか。
日本独自の文化、いわゆる同調圧力と戦うことが大変だと思います。幼い頃、「日曜日にサッカーの試合に来ないのはなぜだ」とか、「教会に行くことがなぜ大切なんだ」とか、他の人たちと違うことに凄くプレッシャーを感じていました。伝道するときもそうですよね。今の若い人たちは違うかもしれませんが、家の宗教とかお墓とか代々引き継いできたものの圧力があると思います。
あと日本人は真面目な方が多いので、礼拝に出席する、奉仕をすることをきちんとやってくださるかもしれない。でもどのような状況でも御言葉に堅く立ち続け、クリスチャンとして本当に真実な生き方をすることは難しい。だからこそ一人で戦うのではなくて、教会の皆が日常生活でもつながって、ともに支え合う文化が必要なのだと思います。
聖書カウンセリングは日本人クリスチャンの助けとなるのか
ーーここからは聖書カウンセリングについてお話をお伺いしていきたいと思います。聖書カウンセリングはアメリカで発展してきましたが、日本人のクリスチャンをどのように励まし助けていくことができるでしょうか。
聖書カウンセリングの考え方やアプローチ自体は日本でも有効だと思います。日本人のクリスチャンは、クリスチャンである自分と世の中で生きていく自分という二人の自分を育ててしまい、二重生活を送ってしまう傾向があると思います。聖書カウンセリングは、二つの自分の橋渡しをしてくれます。つまり、日常生活の中でイエス様の教えを実行するように促してくれます。例えば、イエス様は「まず神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)と教えられました。それは単なるスローガンでなく、どんな仕事や家庭を持つべきかという人生の大きな選択から、余暇の過ごし方、寝る前の30分に何をするかということにまで及ぶべきです。また、苦しい時に神様が「脱出の道を備えていてくださる」(1コリント10:13)との約束があります。私たちは、これを単なる気休めとして「結局は全て自分で解決しないといけない」と考えてしまい、状況に押し潰されたり、神様が喜ばない方法で解決を探ってしまうこともあるかもしれない。でも神様の守りと導きが必ずあるのだと確信し、ひざまずいて御心を祈り求め、聖書に沿って建設的な対応ができるようになっていきたい。聖書カウンセリングは、聖書に書かれた一節一節が、自分の日常的な考え方や行動となるよう、互いに励まし合っていくことなのです。
でもアメリカでやっているように、何か問題が起きた時に「カウンセリングセッションを10回やりましょう」といって罪を指摘したり、「聖書のここにこう書いてありますよね、だからこうですよ」って頭ごなしに言ったところで、カウンセリングを受ける人の心がついてこない場合もあるのではと思います。「正しいとわかっている、でも・・・」という気持ちが強くて、つまずいてしまうのではないでしょうか。例えば怒りという問題があれば、聖書から「怒りっぽいのは罪です。怒りの問題に対応するための聖書箇所はここです」と聖書箇所だけ教え、「怒りの問題であればこの聖書箇所を引けばよい」という感じで提供してしまう。でも、それでは心に届かないですよね。カウンセラーも相談者も聖書的な世界観を持つことが重要で、それができて初めて具体的な問題に入っていけると思います。
ーー例えば誰かが「怒りの問題で悩んでいるんです」といって相談に来たとしますよね。でもその人の中に聖書的な世界観が形成されてないなと思ったら怒りについてのカウンセリングはストップして、聖書的世界観を学び、その後で個別のカウンセリングに戻るというようにステップを踏んでいく必要があるのでしょうか。
個別の問題と世界観の問題って相互に作用しているものなので、進め方の完成形はないですね。でも恐らくそのような視点が必要になると思います。相談者が問題とどう向き合っているかを確認したときに、聖書的な世界観や人間観を持っていないなと気づく場合があります。心の中でなぜ怒りを感じているのか、その背後にはどのような聖書的でない願望があるのかを深掘りしていくことになると思います。
結局、聖書カウンセリングの力というのは、聖書の一節一節に力があることを本当に信じているかどうかによるのですよね。「聖書に権威をおいてます」といっても、聖書にどの程度の重みを感じているかどうかは、人によってかなりグラデーションがあると思います。相談者が聖書に心から権威を感じていないのに、「聖書にこう書いてあるからこうすべき!」と伝えても響かない。
福音に対しても深い理解を持っていないと、問題を聖書的に解決できないのです。どれほど自分が神様から赦されているかを理解していないから、自分も他の人を赦すことができない。だから聖書カウンセリングと言いながら、最終的にはイエス様の十字架に戻っていく。福音を深く理解してもらうことで、はじめて個別の問題に向き合う土台ができる。福音理解を深めることの方が、個別問題よりも優先順位の高いことだと思います。でも、その個別の問題に直面していることこそが、福音に真摯に向き合うきっかけになるんです。
ーーカウンセリングという言葉に対する日本社会の一般的なイメージと、聖書カウンセリングで実際に行うことはかなり違うかもしれません。聖書カウンセリングが日本であまり知られていないがゆえに、クリスチャンにも誤解があるかもしれないですね。
カウンセリングという言葉自体はキャッチーだし、人を引きつける力があると思います。何か問題を抱えたとき、例えばうつ病の方とか、離婚の危機に直面している方など、第三者に支援してほしいというときに、〇〇カウンセリングと名乗っていればその選択肢に浮上してくる。その点はよいのですが、聖書カウンセリングは相談に来る人に一定の聖書理解があることを前提としているので、相談者の期待とのギャップが大きく、ニーズに応えることができない場合もあると思います。誤解を与えないように、それぞれの地域教会やミニストリーの実情に合った、適切な名称を使う方がよいかもしれません。
ーーここまでのお話を踏まえて、日本で聖書カウンセリングを進めていくためにはどのような調整が必要だと思いますか。
聖書カウンセリングをクリスチャン同士が互いに助け合うという意味で捉えていくとよいと思います。私たちがいかに孤独を抱えやすいか先ほどお話しました。信仰に生きようとして、未信者ばかりの中で孤軍奮闘してもうまくいかず、しんどくなってしまいます。問題を抱えたとき、教会の兄弟姉妹が互いに助け合える土壌を醸成するきっかけとして用いていく。聖書カウンセリングで取り扱うような内容を、礼拝のメッセージ、日曜学校や学びで教えていくのも意味のあることだと思います。要は、一人ひとりが「聖書を生きる」のを励ますということです。単なる知識にとどめないで教会員一人ひとりが互いに助け合う、愛し合う、従い合う、戒め合うことを絶えず励ましていく。そうすれば、いわゆる聖書カウンセリングは、形式的なセッションとしてではなく、教会の中でごく自然になされていくようになるでしょう。聖書カウンセリングは、教会の兄弟姉妹がキリストにある家族として、ともに歩むことを支える手段として活用できると思います。





