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深い苦しみの中にある人への寄り添い
どのような苦難の中でも、神のみことばは永遠の希望であり、確かな避け所です。
人生の嵐の中で、私たちはどこに避け所を見いだすことができるのでしょうか。聖書全体に示されている十分な真理を、どのように見いだし、私たちの心を悩ませる試練や問いに適用すればよいのでしょうか。
これら二つの問いには答えがあります。しかし、私たちは時に、その答えを見いだし、それを自分の歩みに生かすための導きを必要とします。それは、苦難のときにはなおさらです。
まず、私たちは思いを新しくすることから始めます(ローマ12:1-2)。聖書こそが、私たちの経験に光を当てる真理でなければなりません。堕落した世界における私たちの経験は、聖書が教える真理や、人間の堕落した状態についての教えに取って代わるものではありません。もし自分の経験を最終的な基準としてしまうなら、欺きや混乱、そして偽りが、神の真理や苦難の中にある目的を歪めてしまいます。
最近、カリフォルニア州パシフィック・パリセーズの街が火災に見舞われ、その火はロサンゼルス郡全域に広がり、何十万人もの人々の生活に影響を及ぼしました。多くの人が家や生計の手段、そして大切な思い出の詰まったものまで、すべてを失いました。後に残されたのは、廃墟と瓦礫、そして混乱と荒廃という、終末を思わせる光景だけでした。愛する人を失った人もいれば、今もなお、その人を探し続けている人もいます。
悲劇的な喪失は、信者であっても心の安定を支える土台を揺さぶります。衝撃や麻痺したような感覚、悲しみ、そして絶望が押し寄せます。しばしばその後、怒りや後悔が込み上げ、答えを求める切実な問いが心に生まれます。
苦難の中で人がよく口にする問いの一つは「なぜ」です。ヨブもまた、四十章以上にわたって問い続けましたが、最後にはその問いを神に委ねました。私たちが「なぜ」と葛藤するのは人間らしいことであり、それ自体は罪ではありません。神は私たちの弱さをご存じだからです(詩篇103:14)。
その次に浮かんでくる問いは、しばしば「これからどうすればよいのか」です。
神の計画の中に犠牲者はいない
聖書カウンセラーとして、私たちは神の十分なみことばの中に、それらの問いへの答えを見いだすことができます。しかし、その真理をどのように伝えるかが極めて重要です。
イエスは常に完全なタイミングで真理を語られました。その完全なバランスには、明確な目的がありました。それは単なる一時的な安らぎではなく、贖いです。希望を失っている人の心に、新たな希望をもたらすために、真理を語るタイミングにおいても、イエスに倣う必要があります。
私たちは悲劇を避けて通ることはできませんが、苦難を神の主権という視点から捉え直す必要があります。神のご計画の中に犠牲者はいないのです。私たちは、相談者が自分の避け所であり力である救い主、すなわち常に共にいてくださるお方に目を向けられるよう助ける必要があります(詩篇46:1)。
被害者意識は、苦難に直面したときに人間的に理解できる面もありますが、それは肉の思いから生まれる反応でもあります。神は、痛みや苦しみ、悲しみを含め、私たちの人生のあらゆる瞬間を主権をもって治めておられます(ヨブ記2:10、伝道者7:14)。
寄り添いと思いやりをもって真理を伝える
私たちが仕える人々は、神の助けを受けながら、絶望の深い闇から抜け出すために、真理のはしごを一段ずつ登っていくための助けを必要としています。苦難のとき、私たちの考えや感情は、真実を覆い隠してしまうことがあります。
カウンセリングの働きには、相談者が経験している喪失に目を向け、その身体的な必要にも心を配ることが大切な要素として含まれます。ここでも聖書は、疲れ果て絶望の中にいる人にどのように仕えるべきかについて、はっきりとした実例を示しています。
エリヤは、恐れと疲れによって深い絶望の中にあり、まず身体の回復が必要でした。希望が打ち砕かれ、落胆し、恐れ、大きな苦悩の中にあったエリヤは、絶望のあまり主に死を願いました(1列王記 19:4)。しかし、そのように疲れ果てていたエリヤに対し、神は食べ物と飲み物、そして休息を与えられました。神がエリヤに語りかけられたのは、この休息の後でした。人に寄り添うとき、タイミングと真理には一定のリズムがあります。
絶望のただなかにあっても、喜びと悲しみは共にあるものです。それらは互いに相反するものではありません。パウロはピリピ4章11節でこの両立の現実を示し、神が私たちの人生に定められるどのような境遇にあっても立ち向かえるよう、力を備えてくださることを示しました。この真理を実際の生活の中で生きていくためには、恐れや喪失を神に委ねるとき、私たちを支え、壊れた心を癒してくださる神の超自然的な力が必要です。
人に寄り添う歩みの中で神の知恵を求めながら、私たちは相談者が聞き、繰り返し思い起こす必要のある聖書の真理をしっかり自分の内に備えておかなければなりません。神は、史上最も重要な真理である聖書を、言葉を用いて伝えることを選ばれました。真理と配慮のバランスに心を配りつつ、相手にとって受け入れ難いことであっても、私たちの言葉もまた、それらの真理を伝えるものでなければならないのです。
心を希望の神に向ける
私たちの希望は、状況ではなく、希望の神(ローマ 15:13)に結びついていなければなりません。苦難の中にある人々には、誰かが寄り添ってくれること、すなわちキリストのからだによる慰めと支えという命綱が必要です。
この「寄り添うこと」は「互いに支え合う」ことの現れであり、時間と献身、そして忍耐強い祈りを必要とします。その人が、礼拝やスモールグループ、奉仕などを通して再び共同体とのつながりを持てるよう励ましてください。最初は難しく感じるかもしれませんが、こうしたつながりも神の備えの一部なのです。
また、彼らの苦しみをよく理解しようと心がけ、その言葉に耳を傾けてください。どの聖書の物語が彼らの心に最も響いているかを知り、その物語にある真理への理解をさらに深められるよう助けてください。すでに彼らの心に響いている聖書箇所を土台にして、そこからさらに真理を語っていきましょう。
私が特に好きな聖書箇所の一つに、ルカの福音書24章13〜51節にある「エマオへの道」があります。そこには、復活後のイエスがエルサレムを離れた二人の弟子と出会われたことが記されています。彼らは混乱し、動揺していたため、イエスがご自身を現されるまでその方だとは気づきませんでした。彼らの置かれている状況を完全にご存じであったイエスは、聖書の真理を思い起こす必要があることを知っておられました。希望を失い落胆していた二人はこう言いました。
「私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。」(ルカ 24:21a)
イエスは、彼らが希望を失っている原因を明らかにされました。それはイエスを本当の姿のままで見ていなかったことでした。イエスは、旧約聖書がご自身について何を預言していたかを示し、聖書の真理によって彼らの混乱を解かれました。たとえ人生が混沌としているように感じられるときでも、何が真実で確かなのかを示されたのです。
イエスは彼らと共に歩みながら、その恐れに真理を語りかけ、共に食事をし、ついにご自身を現されました。彼らの目が開かれたとき、思わず声を上げました。
「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」(ルカ 24:32)
ここで「燃える」と訳されているギリシャ語kaiō(カイオー」は、火がともる、燃え上がる、炎となるという意味です。
ジョン・マッカーサーはこの箇所について、その注解書の中で次のように述べています。
「この出来事は、三つの視点から見ることができます。すなわち、『理解の必要』、『理解の源』、そして『理解への応答』です。」[1]
これらは、痛みや苦難に向き合うとき、相談者が神の栄光を現すかたちで応答できるよう導く枠組みとなります。
私たちは、傷つき希望を失った人々に対し、真理とそれを語るタイミングのバランスを保ちながら、十分で完全な神のみことばを慎重に取り次ぐ必要があります。救い主のカウンセリングに見倣うことで、相談者の心と希望は新たに励まされ、試練を聖書の視点で理解することから生まれる新しい目的と、耐え抜くために必要な励ましを得ることができるのです(ヘブル 12:1-3、1テサロニケ 1:3)。カウンセリングのあり方は、私たちの神学を映し出すものだからです。
苦難の中にある相談者には助けが必要です。キリストとそのみことばこそが、決して奪われることのない永遠の希望であり、確かな避け所であることを見失わないよう、私たちは彼らを助けなければなりません。悲しみの中にいる人々に仕えるには、短い励ましの言葉だけでは十分ではありません。こうした状況でのカウンセリングには、相談者にとってもカウンセラーにとっても、忍耐が求められます。聖化における神のタイミングは、私たちが思うものとはしばしば異なります。それでも、私たちは最後まで彼らと共に歩んでいきます。
結局のところ、キリストの揺るがない愛こそが、私たちが人に寄り添いカウンセリングする働きの源です。人々を「不思議な助言者」(イザヤ 9:6)であるお方へと導くとき、私たちは贖い主の御手にある器にすぎないのです。苦しんでいる人々に寄り添いながら、真理と、それを語るタイミングの双方に心を配るとき、私たちは忍耐をもって神の真理を忠実に分かち合い、どれほど暗い試練の中にあっても、神の御手が働いていることを見いだせるよう彼らを助けるのです。灰の代わりに美しさを与えてくださるのは、神おひとりです(イザヤ 61:3)。神は私たちを通して、彼らに慰めの源を思い起こさせ、痛みの中にも神が目的を定めておられることを示してくださるのです(2コリント 1:3-4)。
[1] MacArthur, John, The Macarthur New Testament Commentary, Luke 18-24, Chicago: Moody Publishers, 2014, p, 419.
【翻訳に関する留意事項】 本記事の日本語訳は、公認聖書カウンセラー協会 (ACBC)の許可を得て作成されました。ACBCは本翻訳の作成を承認しておりますが、翻訳の正確性、完全性、あるいは表現の適切性については、一切の責任を負いません。 内容に相違がある場合は、英語の原文が公式な正本として優先されます。原文はこちらからご覧いただけます。
Translation Disclaimer: This translation is produced with permission from the Association of Certified Biblical Counselors (ACBC). While ACBC has granted permission for this translation, they are not responsible for the accuracy or quality of the translation. The original English text remains the official version and can be found here: Ministering Amidst Catastrophic Suffering
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