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Close-up of varied pills and capsules scattered on a white surface.
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精神疾患の霊的本質

精神疾患は医学的な問題ではないのでしょうか。そのような問題に対して、福音がどのように助けとなるのでしょうか。聖書と精神疾患は無関係であり、したがって聖書はそれらに対して何の助けにもならない、と考えてしまいがちです。

①福音と精神疾患

福音は精神疾患と関係があるのか?

公認聖書カウンセラー協会(ACBC)では、ある特定の「福音の働き」に取り組んでいます。私たちはカウンセリングという働きの中で、最も深く傷つき、悩んでいる人々を、イエス・キリストの福音へと結びつけることを目指しています。

また、比較的軽い霊的な問題に悩む人から、精神疾患の診断を受けている人に至るまで、あらゆる人々に対して神の恵みの福音をもって仕えることができるよう、カウンセラーの認定を行っています。

こうした私たちの姿勢を見ると、多くの人は「福音は精神疾患と一体どのような関係があるのか」と疑問に思うことでしょう。精神疾患は医学的な問題ではないのでしょうか。そのような問題に対して、福音がどのように助けとなるのでしょうか。

聖書と精神疾患は無関係であり、したがって聖書はそれらに対して何の助けにもならない、と考えてしまいがちです。多くの人にとって、それは聖書カウンセリングで車の修理をしようとするのと同じくらい、筋が通らないことのように思えるのです。

精神疾患は霊的なものなのか?

実際には、福音は精神疾患と深く関わっています。これを示す方法はいくつもありますが、まずは、一つの話をしましょう。それは、ジョン・ヒンクリー・ジュニアという人物の話です。

1981年3月30日、ヒンクリーはロナルド・レーガン大統領の暗殺を企てました。彼は女優のジョディ・フォスターに異常なまでに執着しており、「もし大統領を殺害すれば、自分は彼女と対等な存在になり、彼女の関心を引けるはずだ」と信じ込んでいたのです。ヒンクリーは大統領の演説が終わった直後に発砲し、大統領本人を含む4人にけがを負わせました。負傷者には、2人の警察官とレーガン大統領の報道担当官も含まれていました。

非常に議論を呼んだ評決の結果、ヒンクリーは「心神喪失による無罪」とされました。長年にわたり、多くの精神科医がヒンクリーの何が問題なのかを議論してきました。彼には、うつ病、気分変調症、境界性パーソナリティ障害、統合失調症、シゾイドパーソナリティ障害など、さまざまな診断が下されてきました。

さらに、そもそもヒンクリーに精神疾患があるのかどうかについても、より多くの精神科医たちが議論してきました。過去30年にわたり、専門家による精神医学的証言は、ヒンクリーを病院に収容すべきか、それとも刑務所に入れるべきか、また彼にどの程度の自由を与えるべきかを巡って対立してきました。

狂気か、悪意か

このような議論から、精神医学は、他の多くの科学分野に期待されるような、明確な診断や治療を十分に提供できていないことが分かります。

しかし、ここで私が言いたいのは別の点です。たとえヒンクリーに精神疾患があったと結論づけたとしても、彼と、たとえばがん患者との間には、本質的な違いがあると言わざるを得ないのではないでしょうか。がんや糖尿病、心臓病を患っている人が、女性につきまとったり、大統領を殺害しようとして群衆に発砲したりすることはありません。

あらゆる病はアダムの罪によって汚された世界に存在していますが、精神疾患には、他の病気とは異なり、道徳的な側面が関わっているのです。

私たちの社会で精神疾患と呼ばれている問題に目を向けると、それらが従来の病気とは異なり、人の心が深く関わっていることに気づくでしょう。

たとえば、うつ病と診断された人には希望と励ましが必要です。アルコール依存症と呼ばれる人は自制を身につける必要があります。反抗挑戦性障害とされる子どもたちは、親を敬うことを学ばなければなりません。希望や自制、そして従順が不可欠となるような病気が、他にあるでしょうか。

精神疾患の人は何を必要としているのか?

誤解しないでください。私は、精神疾患と診断されたすべての人々を裁こうとしているわけではありません。また、そのような人々全員をジョン・ヒンクリーと比較しているわけでもありません。さらに、精神疾患と診断された人々に、医学的な問題が一切存在しないと言っているわけでもありません。

私がお伝えしたいのは、従来の病気とは異なり、ほぼすべての精神疾患の診断で、
「何が正しく何が間違っているか」「何が善で何が悪か」「従順か不従順か」という霊的な問題が深く関わっているということです。従来の病気とは異なり、精神疾患と診断された人々には福音が必要なのです。

あえて「異なる」と言ったのは、すべての人に福音が必要だからです。がん患者にとって、福音は化学療法よりも重要であり、糖尿病患者にとってはインスリンよりも、心臓病の患者にとってはバイパス手術よりも重要です。

福音は、限りある医療を超えて、天におけるキリストとの永遠のいのちへと至らせる唯一の解決を与えます。たとえ特定の病の中心的な治療が福音とは別のところにあるとしても、病を抱えるすべての人にとって最も必要なのは、イエス・キリストの福音なのです。

しかし、精神疾患と診断された人々については事情が異なります。どの薬が、キリストにある希望を与えることができるでしょうか。どのような治療が自制を生み出すことができるでしょうか。これまでに、従順を生み出した電気けいれん療法(ECT)があったでしょうか。

これらの問いに対する答えは、すべて「いいえ」です。これらのものは、主イエスが内住の御霊を通して結ばせてくださる御霊の実なのです。この御霊は、福音を信じる者の内に住まわれるのです。

様々な精神疾患の生物学的・医学的側面をどのように位置づけるにせよ、私たちはこう断言します。「福音なしに、どのような治療も完全とは言えない」と。なぜなら、これらの問題に不可欠な変化をもたらすことができるのは福音だけだからです。

だからこそ、クリスチャンはこれらの問題について語るべきことを備える必要があります。公認聖書カウンセラー協会(ACBC)は、教会がこれらの問題について知恵をもって成長するのを助け、また、福音の奥深さをこのような困難で複雑な問題に適用する術を知る男女を公認し、養成するために存在しています。

②霊的本質を無視する危険

精神疾患にどのような生物学的要因が関わっていようとも、その多くの診断には、従来の身体疾患とは異なる形で、霊的な問題が関わっています。このことは、季節性感情障害のような比較的軽い場合であれ、解離性同一性障害のようなより深刻な診断であれ、明らかです。

単なる医学的な問題なのか?

この明らかな現実があるにもかかわらず、多くのクリスチャンは、精神疾患に含まれる霊的な問題を見過ごしています。この過ちが生じる最も重要な理由の一つは、「極端で深刻な問題は医学的な問題である」という、驚くほど世俗的な前提にあります。

人を衰弱させ、常識では理解しにくい、恐ろしく、かつ解決が困難な問題を抱える人々を見ると、私たちはそれを正しく見極められなくなってしまうことがあります。そして、「極端な問題は生物学的な問題である」という、世の中の一般的な理解を、そのまま受け入れてしまいがちなのです。

もちろん、医学的な問題が極端に深刻な状態を招くことがあるのは確かです。しかし、霊的な問題がもたらす強く歪める影響を無視するとき、私たちは神を中心とする聖書的な世界観から離れてしまいます。実際、この世界において最も人を衰弱させ、恐怖をもたらす問題は、私たちが直面している霊的な問題にこそ起因しているのです。

霊的な問題

深刻な霊的問題とはどのようなものか、いくつかの例を考えてみましょう。

サウル王

王権が衰えつつあったサウル王は、ダビデとの関係において、殺意をもって槍を投げつけるかと思えば、奇妙なほどの愛情を示すなど、両極端の態度を行き来していました。

彼の身体には医学的な異常は何もなかったため、どれほど高度な医療技術を用いても、肉体的な病理を診断することはできなかったでしょう。サウルの抱えていた極端な問題は、明らかに霊的なものであったのです(1サムエル18~31章)。

ヨブ

ヨブは、自分の子どもたちが全員亡くなったことを知らされたとき、見る者に違和感を覚えさせるような激しい悲しみをあらわにしました。あまりにも痛ましい喪失の中で見せた彼の極端な反応を前にして、多くの人は戸惑いを覚えることでしょう。彼は声を限りに叫び、衣を引き裂き、頭を剃りました。私が牧会してきた教会の人々が、悪気はなくとも、心の中でこう思う場面を想像できます。「本当にお気の毒だけど、どこかおかしいのではないか。あれは普通ではない。何かの病気なのではないか。」

しかし実際には、ヨブの身体には何の問題もありませんでした。彼はただ、圧倒的な悲しみの中で、極端なかたちでそれを表していただけなのです(ヨブ記1~2章)。

ネブカドネツァル王

もしバビロンの大帝国が現代に存在していたとしたら、私たちはネブカドネツァル王の行動を理解するのに戸惑うことでしょう。もし、ごく普通のクリスチャンが、あの権勢を誇る王が宮殿を離れ、野に身を置いて動物のように暮らし、草を食べ始めるのを目にしたとしたら、どうすべきかすぐに分かるはずです。王を精神病院に収容し、さまざまな検査を受けさせ、金に糸目をつけず最高の世俗的なセラピストたちに委ねることでしょう。

しかし、そのどれも通用しません。ネブカドネツァルは高慢であり、へりくだるまで神のさばきを受けていたのです。主こそが神であるとへりくだって認めること以外に、彼を助けるものはありませんでした(ダニエル4章)。

ゲラサの男

墓場を走り回り、叫び声を上げ、鎖を断ち切り、自分の体を傷つけている男を見たら、今日の多くの人はどう思うでしょうか。大抵の人は、彼を深刻な精神疾患と診断し、投薬し、施設に収容しようとするでしょう。

しかし、主イエスがゲラサ人の地でこのような男に出会われたとき、主がそこに見られたのは、病気の人ではなく、汚れた霊に取りつかれた男でした(マルコ5章)。

世界観の対立:聖書的 vs 世俗的

これらはほんの一握りの例に過ぎず、聖書には他にも多くの事例が記されています。しかし、ここでの論点は明確です。聖書的世界観に立つクリスチャンとして、私たちは深刻な問題を霊的な側面を含めて据えなければなりません。

今日であれば、容易に精神疾患という深刻な診断を下されるこれらの問題は、実のところ、深刻な霊的問題なのです。これらの事例において、医学的な問題が関わっていたものは一つもありませんでした。むしろ、これらの事例は、主によって送られた偽りの霊、絶望的な悲しみ、神によるさばき、あるいはサタンの圧迫によるものでした。

世俗的で、無神論的かつ人間中心主義的、そしてポストモダン的な精神医学の慣習からすれば、こうした主張は中身のない宗教的たわ言に見えることでしょう。しかし、クリスチャンである私たちは、これらの現実こそが神の真理であると確信しています。

もしクリスチャンが、こうした状況や他の多くの事例を深刻な問題の理解に組み入れることができないなら、その理解は聖書的とは言えません。苦しんでいる人々の問題を理解する上で、聖書的な視点に立っていないからです。最も深刻な問題を、その本質において霊的なものではなく、医学的なものであると信じてしまうとき、私たちは自分たちが受け継いできた聖書的でキリスト教的な信仰を放棄しているのです。

単純ではない。むしろ複雑である

聖書的世界観に立つ人々は「単純すぎる」と非難されることがあります。しかし実際には、その非難が当てはまるのは世俗的な人々の方なのです。すべての深刻な問題の原因が医学的な問題にあると決めつけることこそ、単純な考えです。それに対して、より深く複雑なのは、精神疾患における深刻な問題において、霊的要因と生物学的要因が関わり合うことを認める、よく考えられた理解の枠組みです。このような多角的な視点を提供できるのは、聖書カウンセリングというアプローチ以外にありません。

聖書は、数多くの深刻な問題が、その本質において霊的な問題であることを明確に示しています。この事実はクリスチャンにとって強い動機となるはずです。私たちは、精神疾患の問題について「自分たちには語るべきことが何もない」として退いてはなりません。むしろ、私たちは社会の中で最も苦しんでいる人々のもとへと積極的に歩み寄るべきです。最善の医学的介入が役に立たないような状況において、霊的な解決こそが力を発揮します。

③正常とは何か、異常とは何か——苦しむ人々の問題をどう理解するか

精神疾患と診断される人々の問題とは何か

精神医学的な診断を受けた人々の問題は何なのでしょうか。どのような病理的な状態、あるいは健康の欠如が、病という診断に値するのでしょうか。

精神医学は、他の医療分野のような方法で病気の診断を下すわけではありません。うつ病を特定する血液検査もなければ、双極性障害を検出する生体検査もありません。CTスキャンで境界性パーソナリティ障害を見つけることもできないのです。

多くの場合、精神医学的な診断は、通常の医学的診断とは異なります。それは、どのような行動や態度が正常あるいは異常と見なされるかという、主観的な基準に基づく評価です。人は、自分の考えや感情、行動が普通の人がすることの範囲から逸脱したとき、精神疾患を抱えていると見なされます。

正常と異常

アレン・フランシス博士は、その著書『正常を救え(Saving Normal)』の中で、何が人を正常とし、何が異常にするのかについて興味深い議論を展開しています。フランシス博士はデューク大学精神医学科の元主任教授であり、世界的に影響力のある『精神疾患の診断・統計マニュアル第4版(DSM-IV)』の作成委員長を務めた人物です。

数十年にわたる経験を持つ精神医学界の第一人者として、博士は正常とされる基準が曖昧になっていること、精神医学がどの振る舞いを正常とし、どれを異常とするかを制度として定めていること、そして他者と異なる人々を精神疾患とみなしている現状を深く懸念しています。

フランシス博士は著書の中で一章にわたり、正常を定義することがいかに困難であるかを説明しています。そして、DSM-IVを主導した自らの経験に基づき、何をもって精神疾患や異常とするかを定義することがどれほど難しいかを記述しています。彼は著書の16ページで次のように述べています。

「私は精神障害の定義を何十も検討してきました(DSM-IVでは自分自身でも定義を記しました)。しかし、それらのどれ一つとして、どの状態を精神障害と見なすべきか、またそうでないかを判断する上でも、あるいは誰が病んでいて誰がそうでないかを見極める上でも、少しも役に立つとは思えません。」

これは、世界有数の精神科医の一人であり、かつ精神疾患に関する世界で最も影響力のある診断マニュアルの責任者でもあった人物の驚くべき告白です。精神疾患、正常、そして異常を定義しようとするこうした試みは、誰が病んでいて誰がそうでないかを判断する上で、少しも役に立たないと考えています。

正常は基準となり得るのか

フランシス博士の発言は議論を呼ぶものです。彼に同意しない精神科医も間違いなく大勢いることでしょう。それでも構いません。しかし、彼の言葉は私に一つの問いを抱かせました。正常とは何でしょうか。正常は、困難を抱える人々を苦しめているものに対する聖書的な基準なのでしょうか。

結論から言えば、そうではありません。聖書を読むと、普通であることや一般的であることが、そのまま基準になるわけではありません。嘘をつくことは普通ですが、正当ではありません。不誠実な性行為は一般的ですが、基準にはなりません。高慢は空気のようにありふれていますが、ひどい基準です。多くのものが普通でありながら、同時にひどいものなのです。

聖書が示す基準は、正常であることではありません。義です。使徒パウロの言葉に耳を傾けてみましょう。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。(ピリピ3:8-9)

パウロが何よりも求めていたのは、正常であることではありませんでした。むしろ、キリストのうちに見いだされ、その義のうちにあることでした。

精神科医たちの間で、困難を抱える人々の何が問題なのかについて議論が絶えないのは、誤った正常の基準に照らして判断しているからです。聖書は私たちを、キリストの義へと招いています。

人々の問題は、異常であることに関わるものではありません。私たちはみな生まれながらの罪人であり、神の恵みがなければその状態にとどまり続ける存在です。人々が混乱しているのは、彼らが異常だからではありません。彼らが間違っているからです。罪こそが、私たちすべてにとっての正常を定める基準なのです。

人々が直面している最も重大な問題は、彼らがあまりにも正常であることにあります。人々が必要としているのは、よりいっそう正常であることではなく、義です。聖書は、この義が信仰によって与えられると教えています。このことを理解するとき、あなたは次のことを知るようになります。すなわち、私たちの周りにいる困難を抱えた人々が最も必要としているのは、正常になることよりも何より、福音を信仰によって受け入れることなのです。

④精神科医たちが見落としている現実

私はこれまで、クリスチャンが精神疾患の霊的な本質を正しく評価できていないという落ち度について論じてきました。私たちは、複雑な問題は自分たちの手に負えないと、知恵を欠き、不必要な前提を抱いてしまっています。その結果、社会の中で最も困難を抱えている人々を、精神科医だけに委ねてしまっているのです。もちろん、精神科医が果たすべき役割があることは否定しませんが、私が懸念しているのは、その役割をほぼ彼らに委ねてしまったことです。

見当違い

これまで、クリスチャンがなぜ精神科医に委ねているのか、いくつかの理由を考察してきました。もう一つの理由は、私たちが、彼らに実際以上の知識や専門性があると思い込んでしまっていることにあるります。

精神科医のダニエル・カーラット博士は、その著書『Unhinged(正気じゃない)』の中で、リンダとキャロルという二人の女性とのそれぞれの診察について記しています。彼女たちはそれぞれ抑うつ症状に苦しんでおり、博士はそれぞれに異なる薬を処方しました。博士はこの診察を振り返り、その中で自分がしなかったことについて詳しく述べています。まずはカーラット博士による極めて率直な振り返りを読んでみてください。その後に、私から三つの指摘を付け加えます。

私はリンダに、ハーバード大学附属マサチューセッツ総合病院で訓練を受けたにもかかわらず、レクサプロ(Lexapro)がなぜ抑うつ症状を和らげるのか、私にも他の精神科医にもまったく分かっていないとは言いませんでした。キャロルに処方したゾロフト(Zoloft)と同様に、レクサプロはシナプスにおけるセロトニン濃度を上昇させますが、抑うつがセロトニンの減少によって引き起こされるという直接的な証拠はありません。

「脳内化学物質の不均衡」という言葉は、一般の人々の間で、精神疾患を説明するための簡略化された表現としてよく使われています。それは、自分の状態に対する責任感を和らげる、都合のよい説明です。もし問題がそれにあるのなら、本人の責任ではないということになるからです。

精神科医がこの簡略化された説明に同調するのは、患者から病態生理について質問された際に、何かしら答えられるからです。結局のところ、自分が診るよう訓練されてきた、まさにその問題について無知を認めたがる医師などいないのです。

私はリンダに、薬物療法と同じくらい心理療法が彼女に効果的であるかもしれないことや、私が薬物療法を選んだ理由の一つが、3年間の研修医としての期間中に心理療法の訓練をほとんど受けていなかったことを伝えませんでした。多くの精神科医と同様に、私が心理療法を行わないのは、それができないからです。

私はリンダに採血を求めず、脳の画像検査も受けさせませんでした。精神医学における診断は、一世紀前とまったく同じように、一連の質問をし、その回答を分析することによって進められます。患者はしばしば、PETスキャンや脳波検査、コンピュータによる注意力テストなどのメディア報道を耳にして、診断のための検査を求めます。精神科医も患者も、こうした科学的権威の象徴がもたらす安心感を、すぐに受け入れてしまいがちです。しかし残念ながら、精神医学的な診断は他の医学分野に比べて依然として大きく立ち遅れています。そのため、私たちの診断マニュアルであるDSM-IVは、この分野において聖典のような位置づけを帯びるようになりました。

約10年ごとに改訂版が出版され、精神医学の様相は変化します。しかし、新しい診断名は神経生物学的検査によるものではなく、精神科医の委員会による投票に基づいています。精神医学の診断は科学というよりは主観的判断の側面が強いため、この分野は「病気づくり」、つまり薬物治療の市場を拡大するために疾患の定義を広げる働きの影響を受けやすい構造にあります。

最後に、私はリンダに、レクサプロの製造元であるフォレスト製薬の担当者がたびたび私のもとを訪れ、私のお気に入りのスターバックスの飲み物や、受付にサンドイッチを持ってきていたことを告げませんでした。その担当者は、レクサプロがすべてのSSRI(抗うつ薬)の中で最も忍容性が高いと述べていましたが、それが真実であるという説得力のある証拠がないことを私は知っていました。しかし、その訪問によって、私の中ではレクサプロが真っ先に思い浮かぶようになっていたのです。そして、私はリンダにレクサプロを処方したのです。[1]

三つの指摘

第一に、カーラット博士によるキャロルとリンダの診察がいかに医学的とは言いがたいものであったかに注目してください。彼は、他の診断であれば当然期待されるような医学的検査を一切行わなかったと認めています。また、他の診断であれば容認されないレベルの無知も認めています。本書の中でも、この現実が特別なことではなく、一般的であることを率直に語っています。

第二に、カーラット博士が自身の処方した治療の効果について、いかに確信を持っていなかったかに注目してください。彼は、その薬が効くのか、どのように効くのか、あるいは他の何かがより効果的ではないのかについて、確信を持っていなかったのです。

第三に、彼がはっきりと避けていた治療の一つが心理療法でした。カーラット博士は、自分には心理療法ができないという理由でそれを行わないのだと認めています。

批判ではなく、むしろ称賛

私はカーラット博士を批判しているのではありません。それどころか、彼の誠実さに感謝しています。それはとても新鮮に感じられます。この新鮮さの理由の一つは、世界中のリンダやキャロルのような人々を助けたいと願うクリスチャンにとって、彼の言葉がどれほど大きな励ましになるかという点にあります。

私たちは、精神医学の専門家たちが権威とされるこの社会の風潮の中で、自分たちが無知なのではないかと恐れる必要はありません。現実は、深刻な問題に苦しむ人々に満ちた世界で、誰もがどう助ければよいのか分からずにいます。多くの人を苦しめている人生の問題の、その深さを探り尽くした人などまったく一人もいません。

私たちがみな無知であるこの現実の中で、クリスチャンには少なくとも一つ確かなことがあります。より正確に言えば、私たちが知っているお方がおられます。私たちは、リンダやキャロル、そして他のあらゆる問題を抱えた人々を形造られたお方を知っています。私たちは、壊れた人々を永遠の愛で愛してくださるお方を礼拝しています。最も深い絶望の中に光を注ぐお方と、信仰によって結ばれています。そのお方の名は、イエスです。

突き詰めて言えば、私たち聖書カウンセラーは、脳内化学物質について詳しいとは言えません。本当に困難な状況にある人々にとってどの薬が最も役立つかという情報も、それほど持っていないかもしれません。しかしその現実を認めることは、高度な訓練を受けた精神科医たちが正直に語るときに認めているのと同じなのです。

この混沌と混乱の中で、確かに助けることができると知っているのは、クリスチャンだけなのです。私たちは苦しむすべての人の目を見つめ、その痛みのただ中にあっても、私たちの主キリストがマタイの福音書11:28-30で与えてくださったのと同じ言葉を語ることができるのです。 「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」


[1] Daniel Carlat, Unhinged: The Trouble with Psychiatry—A Doctor’s Revelations about a Profession in Crisis, Kindle edition, Loc. 237.

【翻訳に関する留意事項】 本記事の日本語訳は、公認聖書カウンセラー協会 (ACBC)の許可を得て作成されました。ACBCは本翻訳の作成を承認しておりますが、翻訳の正確性、完全性、あるいは表現の適切性については、一切の責任を負いません。 内容に相違がある場合は、英語の原文が公式な正本として優先されます。原文は下記のリンクからご覧いただけます。

Translation Disclaimer: This translation is produced with permission from the Association of Certified Biblical Counselors (ACBC). While ACBC has granted permission for this translation, they are not responsible for the accuracy or quality of the translation. The original English text remains the official version and can be found below.

聖書:新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

  • ヒース・ランバート(Heath Lambert)は、ジャクソンビル・ファースト・バプテストチャーチ(First Baptist Church, Jacksonville)の主任牧師であり、ACBCの元事務局長です。

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