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病は気から?
心と身体を見つめる聖書のまなざし
ゴールデンウィークに入りました。長い休みを利用して旅行に出かける人もいれば、遠く離れた実家に帰る学生もいるでしょう。地方から大学へ進学し、初めての下宿生活を始めた学生にとっては、久しぶりに親元で過ごす時間が大きな慰めになるかもしれません。私自身もそうでした。実家に帰る途中、新幹線の窓から見える景色を眺めながら、ある種の安心感を覚えました。不思議なもので、親元を離れて自由にできると思っていた一ヶ月前の自分が嘘のように感じられたことを覚えています。
けれども、そのような楽しい休みも、終わりに近づくころには心の重たさへと変わることがあります。
「仕事に戻りたくない」
「学校に行きたくない」
「またあの生活が始まるのかと思うと、気分が沈む」
日本では、この時期に見られる心身の不調を「五月病」と呼ぶことがあります。これは正式な病名というより、新しい環境や生活の変化の中で無気力になったり、緊張や疲れが少し遅れて表れたりする状態を指して使われることが多い言葉です。医学的には、これらの多くが「適応障害」あるいはうつ病と診断されることもあるようです。
また、日本には「病は気から」ということわざもあります。
もちろん、すべての病気が「気の持ちよう」だけで起こるわけではありません。身体そのものの弱さ、疲労、睡眠不足、病気、医療的な要因もあります。ですから、苦しんでいる人に向かって、「気の持ちようが悪いからだ」と言うことは、決して聖書的でも、愛のある助けでもありません。
けれども、このことわざには一面の真理があります。私たちの心の状態は、身体にも影響を与えるからです。聖書は、人が物質的な身体と非物質的なたましいを持つ存在として造られたことを教えています。創世記には、次のように記されています。
神である主は、その土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった(創世記2章7節)。
また、伝道者の書にはこうあります。
土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る(伝道者の書12章7節)。
このように、聖書は人を単なる身体だけの存在としてではなく、また身体を持たない霊のような存在としてでもなく、たましいと身体を持つ一人の人間として描いています。神は私たちを、たましいと身体が深く結び合った存在として造られました。
だからこそ、心で考えていること、恐れていること、信じていることは、身体とも無関係ではありません。心が荒んでいると、生活も荒れます。心の苦しみが身体に影響を及ぼすこともあれば、反対に身体の弱さが心に影響を及ぼすこともあるのです。たとえば、長期的な病気、いわゆる慢性疾患を患っている人は、うつ病を発症するリスクが高いとも言われています。
箴言には、このような言葉があります。
喜んでいる心は健康を良くし、打ちのめされた霊は骨を枯らす(箴言17章22節)。
このみことばは、心の状態が身体にまで影響することを教えています。神にある喜びや希望、平安は、私たちの歩みを支えます。一方で、恐れや不安、失望、怒り、罪悪感、孤独は、心だけでなく身体にも影響を及ぼすことがあります。
たとえば、発表会でみんなの前に立つことを考えるだけで、心臓がドキドキしたり、呼吸が浅くなったりすることがあります。これは、多くの人が経験したことのある、心と身体が結びついている身近な例でしょう。
休み明けに学校へ戻ることを考えただけで、朝起きられなくなる学生もいるかもしれません。身体がどこか悪いわけではないのに、胸が重く、食欲がなく、人に会いたくない。授業のことを考えると、涙が出そうになることもあります。
私自身、小学二年生の時に麻疹にかかり、学校を二週間休んだことがありました。大好きだった母と一緒にいられることが嬉しくて、回復した後も学校に戻るのがいやになり、お腹が痛くなったことを覚えています。
あの時の私は、ただ学校をサボりたかったのでしょうか。そうではありません。母のそばにいる安心感から離れたくなかったのです。
もちろん、すべての腹痛や身体の不調が心から来るわけではありません。しかし、心の中にある不安、恐れ、寂しさ、緊張が、身体にも影響を与えることは確かにあります。身体に表れる不調の背後に、心の重荷が隠れていることもあるのです。
また、仕事や人間関係で失敗した人も同じです。一度の大きな失敗が、いつまでも頭から離れないことがあります。その失敗が原因で、人の目を気にしたり、自分には価値がないと思い込んだり、もう人生が終わったかのように感じたりする人もいます。
そのような思いが心を支配すると、眠りが浅くなったり、夜中に何度も目が覚めたり、食欲が大きく落ちたりすることがあります。朝になると、身体が思うように動かなくなることもあるでしょう。心で考えていること、恐れていること、信じていることは、身体と無関係ではありません。
だからこそ、聖書は私たちの心に目を向けます。箴言4章23節は、次のように語っています。
何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。
聖書が語る「心」とは、単なる感情のことではありません。私たちが何を考え、何を願い、何を恐れ、何を愛し、何を信じ、何を礼拝しているのかが表れるところです。ですから、聖書カウンセリングは、人の苦しみをただ表面的な症状としてだけ見ることはしません。心にあることは、言葉や行動にも現れるからです。
「なぜ学校に行きたくないのか」「なぜ仕事に戻ることを重く感じるのか」「何を恐れ、何を失うことを恐れているのか」。そのように、心の中で起こっていることを、みことばに照らしながら、苦しんでいる人とともに丁寧に探っていきます。
同時に、聖書カウンセリングは身体を軽視しません。ここはとても大切です。
預言者エリヤは、カルメル山で大きな勝利を経験した後、イゼベルを恐れて逃げ、死を願うほどに落ち込みました。そして、主に自分のいのちを取ってくださるよう願いました(列王記第一19章4節)。しかし、神はにエリヤの弱さを責めるのではなく、まず彼を眠らせ、食べ物と水を与えられました。
疲れ果てた人に必要なのは、まず睡眠かもしれません。食事や休息かもしれません。場合によっては、医療的な助けを受けることが必要なこともあるでしょう。聖書的に心を扱うことは、身体を無視することではありません。むしろ、神に造られた人を、心と身体を持つ一人の存在として見ることです。
けれども、十分に休んでも、なお心が沈むことがあります。身体を休めても、不安が消えないこともあります。そのようなとき、私たちは自分の心に何が起こっているのかをみことばに照らして見つめる必要があります。何を恐れ、何が神への信頼を妨げているのかを知り、その状況の中でも神がどのようなお方であるかを思い出します。そして、今日できる小さなことから、神に信頼して従っていくのです。
そして何より、私たちはキリストの招きを聞く必要があります。
マタイの福音書11章28節で、イエス・キリストは「すべて疲れた人、重荷を負っている人」に、ご自分のもとに来るよう招いておられます。この招きは、まず罪と重荷を負う人へのキリストの招きです。そして、すでにキリストを信じる者にとっても、日々の疲れや重荷を主のもとに持って行き、主から学び、主に信頼して歩むようにという恵み深い招きでもあります。
主は、心が沈んでいる人、不安に押しつぶされそうな人、その重さが身体にまで表れている人を退けず、あわれみをもって招いてくださいます。主は、私たちにただ「もっと強くなりなさい」と言われる方ではありません。罪を赦し、弱さを知り、重荷を負う者を招いてくださる救い主です。
「病は気から」という言葉には、一面の真理があります。
心の状態は、身体にも影響します。しかし、私たちの希望は、単なる「気の持ちよう」にあるのではありません。私たちの希望は、心と身体の両方を造られ、支え、贖ってくださる神にあります。
休み明けに心が沈むとき、私たちは自分を責めるだけで終わる必要はありません。身体を休めること、必要な助けを求めること、そして自分の心を神の前に持っていくこと。これらは、互いに矛盾するものではありません。
主は、沈んだ心にも目を留めてくださいます。疲れた身体をも顧みてくださいます。そしてキリストにあって、重荷を負う私たちを、まことの安息へと招いてくださいます。
聖書:新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
