読了目安時間:7分

%E7%A5%9E%E3%81%AE%E4%B8%BB%E6%A8%A92
執筆者:

神の主権を考える

ーなぜ神は人の心を頑なにされるのか?ー

「神の主権」という言葉を聞くと、少し難しく感じるかもしれません。しかし、これは聖書を理解するうえで、とても大切な教えです。簡単に言えば、神の主権とは、神がこの世界のすべてを治めておられるということです。 神は世界を造られただけではありません。今も歴史を支配し、人間の歩みを含め、すべてをご自身のご計画の中で導いておられます。

 

頑なにされた心

今から約2千年前、この地上を歩まれた神の御子イエス・キリストは、人々の目の前で数多くの奇跡を行われました。病人を癒やし、生まれつき目の見えなかった人を見えるようにし、さらには死んで4日も経っていたラザロをよみがえらせました。イエスを憎んでいた人々でさえ、多くのしるしを行っていることを認めていました(ヨハネ11:47)。しかし、それにもかかわらず、ヨハネは次のように記しています。

「イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。」(ヨハネ12:37)

不思議なことではないでしょうか。これほど明らかな証拠が示されても、人々はイエスを信じようとしませんでした。この頑なさの原因は一体何だったのでしょう。ヨハネは、その理由を旧約聖書の預言から説明しています。

「イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである。『主は彼らの目を見えないようにされた。 また、彼らの心を頑なにされた。…』」
(ヨハネ12:39-40)

人々が信じることができなかった理由、それは驚くことに、神が預言者イザヤを通した語られた言葉が成就するためでした(イザヤ6:10)。人々が信じなかったことさえ、神のご計画の外で起こった出来事ではありませんでした。神が彼らの目を盲目にし、その心を頑なにされたのです。

神は不公平なのか

ここで、私たちは一つの難しい問いに直面します。「もし神が人の心を頑なにされるのなら、その人に責任があるのでしょうか。神がそうされたのなら、信じなかった人が裁かれるのは不公平ではないでしょうか。」 このような疑問を持つのは自然なことです。しかし聖書は、私たちが忘れてはならない三つのことを教えています。

一つ目に、神が頑なにされる心は、もともと無実でも中立的なものでもないということです。

「神は不公平だ」と考えるとき、私たちはこの点を忘れがちです。全ての人間は、神を愛する良い人として生まれてくるのではありません。聖書は、「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない」(ローマ3:10–11)と語ります。人間は、そもそも神を無視し、自分の道を歩もうとする罪を持つ存在です。つまり、「神が人を頑なにされる」というのは、神が、信じたいと思っている純粋な人を無理やり邪魔して信じられない者に変えてしまう、という意味ではないのです。

二つ目に、神は頑なに拒み続ける心を、信じることができなくされるということです。

これは恐ろしい現実です。人が神を拒み続けるとき、その拒絶は何の結果も伴わないわけではありません。神の恵みを拒み続けるなら、その心はますます頑なになっていきます。出エジプト記に登場するエジプトの王ファラオは、その一例です。神が災いを通してご自分の力を示されたにもかかわらず、ファラオは何度も自分の心を頑なにしました(出エジ7:22、8:15)。そして、そのような彼の心を、主が頑なにされたと聖書は記しています(出エジ10:20、 10:27)。ここには人間の責任と神の主権の両方が示されています。ファラオは自らの意志で神を拒みました。その頑なな心を、神はさらに頑なにされたのです。

そして三つ目に、神は心の頑なさを通してさえ、ご自身の栄光を現されるということです。

ローマ人への手紙9章には、次のように記されています。

「ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。すると、あなたは私にこう言うでしょう。『それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか。』」(ローマ9:18-19) 

これは、私たちが最初に持った疑問そのものです。「神が人の心を頑なにするのであれば、神は人を責めることができるのでしょうか。」 しかし、これに対して聖書は、神と私たちの違いを明確にします。続きにこう書かれています。

「人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか。…それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。」(ローマ9:20-23)

私たちは、神が御心のままに頑なにすることを不公平だと考えます。しかし、神はすべてを造られた方であり、私たちは造られた者です。陶器を作る人が、その器をどう用いるかを決める権利を持つように、すべてを造られた神には、造られたものに対する権利があります。しかも、本来私たちは皆、生まれながらにこの神を拒み、頑なに信じない存在でした。だからこそ、私たちが神から受けるべきものは裁きでした。しかし、そのような滅ぼされるべき「怒りの器」に対して、神は豊かな寛容をもって、忍耐を示してくださいました。ご自身の栄光を現すために、滅びではなく、あわれみの御手を差し伸べてくださったのです。

そして、そのあわれみの頂点として示されたのが、イエスの十字架でした。考えてみてください。イエスはどうして十字架にかかることになったのでしょうか。それは、人々の激しい不信仰と拒絶によるものでした。頑なに拒む人々が、イエスを十字架につけたのです。しかし、その出来事でさえも神のご計画の内でした。人々の拒絶が示された十字架において、神は、救いを成し遂げられました。人間の罪深い不信仰さえも、神のご計画を妨げることはできなかったのです。

すべてを支配しておられる神を信頼する 

「神の主権」は、私たちの限りある頭で完全に理解しきることはできません。しかし、私たちが理解できないことと、神が支配しておられないこととは違います。私たちにはわからなくても、神には完全な知恵があります。私たちには予想もできない方法を通して、神はご自分のご計画を成し遂げることができます。だからこそ、神の主権を知ることは、私たちを冷たいあきらめへと導くのではありません。むしろ、神への信頼へと導きます。神の主権を知れば知るほど、私たちは自分を誇るのをやめ、神の偉大さに目を向けるようになります。

すべてを治めておられる神。その神が、私たちのために御子イエス・キリストを与えてくださいました。この方が私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり、罪の赦しを成し遂げてくださいました。私たちの人生にも理解できないことは数多くあります。しかし、そのようなときこそ、十字架上で示された神の知恵と愛を思い出してください。私たちがすべてを理解できなくても、私たちを愛してくださった神は、すべてをご存じです。そして今も、神様がすべてのことを愛をもって治めておられます。

  • 大阪府出身。マスターズ神学校で神学修士(MDiv)を取得。卒業後2019年より、大阪府堺市にある母教会浜寺聖書教会にて牧師を務めている。

上部へスクロール