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同じ試練を経験していなくても、福音の希望は伝えられます
カウンセラーの皆さん、どうか勇気を出してください。同じ福音を分かち合うために、同じ試練を経験している必要はありません。福音だけで十分なのです。
「自分がその苦しみを経験したこともないのに、どうすれば本当にこの人を助けることができるだろうか」と考えたことはありませんか。
それは、とても良い問いです。そして、正直な問いでもあります。耐えがたい悲しみを抱えた人の隣に座るとき、私たちは自分の限界を感じます。言葉に詰まることもあるでしょう。その人の痛みが、まるで自分とはかけ離れたもののように思えることもあります。しかし、ここに私たちを自由にする真理があります。福音の希望を伝えるために、相手と同じ経験をしている必要はないのです。
苦しみの谷は人によってその様相が異なります。しかし、そこに広がる景色には見慣れたものがあります。霧に包まれたような先の見えない不安、心にのしかかる重さ、頭から離れない「なぜ?」という問いです。
堕落した世界に生きる私たちがこのような共通の経験をするからこそ、神は私たちに詩篇を与えてくださいました。その一つの例が、詩篇13篇です。
詩篇13篇:苦しみの谷を歩むための道しるべ
ダビデは詩篇13篇を、心の奥底からの率直な思いで書き始めます。
「主よ いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。
いつまで 御顔を私からお隠しになるのですか。
いつまで 私は自分のたましいのうちで思い悩まなければならないのでしょう。
私の心には 一日中 悲しみがあります。
いつまで 敵が私の上におごり高ぶるのですか。
私に目を注ぎ 私に答えてください。私の神 主よ。
私の目を明るくしてください。私が死の眠りにつかないように。
『彼に勝った』と 私の敵が言わないように。
私がぐらつくことを 逆らう者が喜ばないように。」(1−4節)
これは丁寧に整えられた祈りの言葉ではありません。むき出しの嘆きです。ダビデは見捨てられ、顧みられず、聞き入れてもらえないと感じています。しかし、彼は一人ではありません。
ヨブも「なぜ、あなたは御顔を隠されるのですか」(ヨブ 13:24)と叫びました。ハバククは「いつまでですか、主よ。私が叫び求めているのに、あなたが聞いてくださらないのは。」(ハバクク 1:2)と問いかけました。そして、キリストご自身でさえ、十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ 27:46)と叫ばれたのです。
カウンセラーの皆さん、ここに注目してください。神はこのような叫びに心を害されることはありません。むしろ神ご自身が、これらの言葉を霊感によって与え、聖書の中に残されたのです。だからこそ、私たちの務めの一つは、人々がありのままの率直な思いを安心して神の御前に持っていけるよう助けることです。私たちは、彼らの悲しみを急いで片付けようとする必要はありません。また、その苦しみの中で思わず口にしてしまう、神についての誤っている言葉を、その場ですぐに正そうとする必要もありません。
むしろ私たちは、彼らがその嘆きを神の御前に持っていけるよう助けるのです。その神こそ、彼らを知り、見て、心にかけてくださるお方なのです。
しかし、嘆きが最後の言葉ではありません。
「なぜ」から「だれ」へ
詩篇13篇の5節から6節にかけて、焦点は「なぜ」という問いから「だれを信頼するのか」へと大きく移ります。
「私はあなたの恵みに拠り頼みます。
私の心はあなたの救いを喜びます。
私は主に歌を歌います。
主が私に良くしてくださいましたから。」(詩篇13:5–6)
ダビデは「なぜ」という問いへの答えを得たわけではありません。しかし彼は、「だれを信頼するのか」を思い起こしました。それは、神の変わることのない契約の愛と、これまでに示してくださった誠実さです。ダビデが神の変わらないご性質を思い起こすとき、その希望は今、新たにされます。なぜなら、神はいつくしみ深く、ご自分の民に善を行ってくださる方だからです(詩篇119:68参照)。
これこそが、苦難の中にある聖徒たちに私たちが伝えることのできる励ましです。以前、深い苦しみと悲しみの中にあったある夫婦に、私が伝えた助言の一部をここで紹介します。
「神は無関心ではありません。御顔が隠されているように見えても、神がその御座を離れられたわけではありません。この同じ谷を主イエスも通られたことを、どうか忘れないでください。ゲツセマネの園で、主が地にひれ伏して叫ばれたことを覚えていますか。「わが父よ。……どうぞ、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころがなりますように。」主の悲しみはあまりに深く、その汗は大きな血のしずくのように地面に落ちました。私たちの罪の重さを負うために来られたイエスは、目の前にある苦しみを、あなた自身の苦しみにも重なる率直さと深い苦悩をもって嘆かれたのです。
しかしその悲しみの中でも、主は父のもとに駆け寄り、心を注ぎ出されました。そしてそこで、御霊が与えてくださる力を受けて、前に進み続けられたのです。父は、主の前に置かれた務めを果たすために必要な恵みを与えられました。主は進んで死に至るまで十字架を担い、父の憤りの杯を飲み干されました。
ですから、あなたもどうか、天の父の腕の中に身をゆだね、心の奥にある問いを神に打ち明けてください。重荷を負った心を恵みの御座の前に持っていってください。神は必ずあなたを慰めてくださいます。耐え抜くために必要な恵みと力を与えてくださいます。一歩一歩前に進む力を与えてくださいます。それは、神が契約を守られるお方だからです。神は誠実な方であり、あなたが耐えられないような試練にあわせることはなさいません。もうどうしてよいか分からないと感じるとき、死者をよみがえらせ、あなたを暗闇から光へと導き出し、今もあなたの信仰を支えておられる神のもとへ駆け寄ってください。」
私はこれこそが、福音中心のカウンセリングの核心であると信じています。私たちは、神の隠された摂理を説明することはありません(また、説明することもできません)。しかし、人々の目を神の変わることのないご性質へと向けることはできますし、そうすべきなのです。試練の理由は分からないままかもしれません。しかし神ご自身は、常に共におられます。誠実で、知恵に富み、良いお方であり、いつくしみ深く、憐れみに満ち、主権をもっておられる、信頼に値するお方なのです。
カウンセラーにとっての意味
では、深い悲しみの中にある人に寄り添うとき、このことはどのような意味を持つのでしょうか。
あなたが相手と同じ傷を負っている必要はありません。深い悲しみの中にいる親を慰めるために、子どもを亡くした経験が必要なわけではありません。病の人とともに歩むために、がんと闘った経験が必要なわけでもありませんし、裏切られた人に寄り添うために、裏切りを経験している必要もありません。
あなたに必要なのは、神とそのみことばに対する確信です。神はすでに、聖書全体の教えを通して、ご自分の民が必要とする物事を理解する枠組み、言葉、そして希望を備えておられます。私たちの務めは、聖霊の助けによってみことばを語り、苦しむ人たちとともに、その苦難の谷を歩むことなのです。
あなたは詩篇13篇が示す歩みを模範とすることができます。相談者が自分の痛みを言葉にして語れるよう助け、彼らの問いに寄り添ってください。そして、これまで誠実であられ、ご自分の子どもたちを決して見捨てないと約束しておられる神へと、彼らが目を向けられるよう助けるのです。
カウンセラーの務め
結局、聖書カウンセラーは答えを出す人ではありません。聖書カウンセリングは、相談者の口から出るあらゆる思いに対して、すぐに聖句を当てはめる「モグラ叩き」のようなものであってはなりません。特に深い苦しみの中にある場合はそうです。むしろ私たちは、苦しんでいる聖徒たちを、決して離さないお方へと導く者なのです。
私たちは、なぜそれぞれの試練がそのように起こるのか、またそれがいつまで続くのかを知ることはできません。黙示録にある殉教者たちでさえ、「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか」(黙示録 6:10)と叫びました。しかし、私たちは、その谷で私たちとともにいてくださる方を知っています。王であるキリスト、永遠の契約の血による羊の大牧者が、今も私たちを支えておられます。そして、主はすぐに来られます(黙示録 22:7, 12, 20)。苦難はしばらくの間かもしれませんが、永遠の時は確かに近づいています。生きるときも死ぬときも、私たちの信頼に値するのはキリストだけです。キリストは間もなく再びこられ、すべてを治め、神の子どもたちに「いのちの冠」を授けてくださいます。冠に至る前には、必ず十字架があります。ですから、キリストから目を離さないでください。あなたの喜びと平安、そして希望は、主のうちに見出されるからです。
カウンセラーの皆さん、どうか勇気を出してください。同じ福音を分かち合うために、同じ試練を経験している必要はありません。福音だけで十分なのです。福音こそ、私たちに必要なすべてなのです。それは、あなたの心を慰め、あらゆる良いわざとことばにおいて強めてくださる神の力なのです(2テサロニケ 2:17)。
【翻訳に関する留意事項】 本記事の日本語訳は、公認聖書カウンセラー協会 (ACBC)の許可を得て作成されました。ACBCは本翻訳の作成を承認しておりますが、翻訳の正確性、完全性、あるいは表現の適切性については、一切の責任を負いません。 内容に相違がある場合は、英語の原文が公式な正本として優先されます。原文はこちらからご覧いただけます。
Translation Disclaimer: This translation is produced with permission from the Association of Certified Biblical Counselors (ACBC). While ACBC has granted permission for this translation, they are not responsible for the accuracy or quality of the translation. The original English text remains the official version and can be found here: Counselors, You Can Offer Gospel Hope Without Shared Trials
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