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A surreal scene with a silhouetted man approaching a bright arched doorway in a dark room.
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「神が私にそう言われた」

誤った希望は、私たちが自分の経験に頼るあまり、「聖書の十分性」に頼る必要はないと考えてしまうときに生じます。

カウンセリングの中で、相談者が、聖書に明確に示されていない事柄について、神が自分に語られたと思い、それを経験として分かち合うことが少なくありません。このような場合、「これは神からのものだ」と思い込み、それを神のみこころだと決めつけてしまいます。「なぜそれを選んだのですか?」「なぜそうなると信じ込んでいるのですか?」と尋ねると、次のような答えが返えってくることがあります。

  • 「神さまは夢を通して私に語りかけてくださるんです。教会の友人が私に対して気を悪くしている夢を見ました。教会は大好きですが、その夢を見てから、新しい教会を探すべき時が来たと思いました。」
  • 「10年間、夫が与えられるようにと祈り続けてきました。お気に入りのレストランにいた時、神さまが私の心に『ここで夫を見つけることになる』と語りかけられたように感じました。一週間後、ある男性が声をかけてきて、デートに誘われ、すぐに気が合いました。彼の信仰の歩みについてはあまり確信が持てなかったのですが、神さまが私に語られたことだと感じたので、彼と結婚することが神のみこころだと思いました。」
  • 「カリフォルニアでの生活に、どこか満たされない思いがありました。素晴らしい教会も家も仕事もありましたが、自分にはもっと何かがあるように思えていました。新しい冒険に出るべきか祈るたびに、神さまからの強い平安が与えられているように感じました。ある日、砂浜を歩いていると、テキサス州の形をした雲が見えました。それが神さまからのしるしだと思いました。友人や家族は引き止めようとしましたが、神さまが語られたのだと思い、翌月には引っ越しました。」
  • 「神さまが私に、次回の教会のピクニックの計画をあなたにお願いするようにと言われました。引き受けていただけることを願っています。」
  • 「教会でユース・ミニストリーを立ち上げる必要があると、神さまから言われているように感じました。しかし、牧師たちが別の方針で進むと言われた時は、とてもがっかりしました。」

相談者たちは、神が自分に語られたと信じ込んで、その経験が彼らの人生で重みや権威を持つものになっていきます。しかし、こうした決断は、彼らの人生や人間関係に混乱や余計な痛みを引き起こします。時には、目新しい経験を求めたり、神からのしるしを待ち続けたりする中で、神が沈黙しているかのように感じ、その結果、身動きが取れなくなったり落ち込んだりすることもあります。

相談者は本当に神のみこころを理解したいと願っているのかもしれません。ところが、クリスチャンとしての歩みの中で、あたかも神と直接通話ができるかのように、神の声を聞けるはずだと信じるようになっているのです。

これらの経験は非常に個人的なものであるため、聖書が神のみことばであるという特別さを踏まえて、相談者の視点を整えていくときには、優しく、愛をもって関わることが重要です。ここでは、相談者がどこに焦点を置いているのかを見極めるための4つのカテゴリーを紹介します。

1. 固い食物よりも刺激を求める(ヘブル 5:12–14)

神とそのみことばを知る歩みを時間をかけ、計画的に、意識して深めていくことは、このデジタル時代に溢れている手軽に楽しめる娯楽に比べると、退屈に感じられるかもしれません。新しいことを学ぶために必要な訓練や実践、また困難を乗り越えることは、次第に魅力を失っていきます。なぜなら、この世界は、人生は簡単であるべきで、快適に暮らすことは当然の権利だと私たちに思わせようとしているからです。

私たちはこのような考えに甘んじてはなりません。

そうすることは、聖書を通して神を知り、神に知られるという栄光ある追求を、それよりも劣ったもので満足してしまうことになります。ヘブル人の手紙の著者が述べているように、神の素晴らしさを味わい、知る者に用意されているごちそうではなく、「乳」で満足してしまうことになるのです。

2. みことばよりも自分の願望を優先する(箴言 3:5–6、エレミヤ 17:9–10)

忠実な学びよりも娯楽に惹かれてしまうのは、私たちの心がキリストにしっかり結びついておらず、自分を欺く願いに満ちているからです。そのため、神のみことばに頼るよりも、自分の願いや感情を信頼するほうに、あまりにも簡単に傾いてしまうのです。

私たちは、自分の願いに向き合い、それを変えていく代わりに、神のみことばを避けてしまうのです。

3. 神の十分でかけることのない約束よりも経験を重視する(2ペテロ 1章、ヘブル 1:1–2)

誤った希望は、私たちが自分の経験に頼るあまり、「聖書の十分性」に頼る必要はないと考えてしまうときに生じます。これは、人生経験や、過去から学ぶことで得られる実りを軽んじているわけではありません。しかし、個人の経験が、自分や他者に対する権威となるべきではありません。

ペテロは、変貌の山で神の声を聞いた経験を述べています(2ペテロ 1:17–21)。彼は、そのような経験を当たり前のこととして考えさせるのではなく、異端的な考えから守るために、信者たちに聖書に記された約束へ目を向けるよう促しています。

神は、終わりの日に、受肉されたことばであるキリストを通して私たちに語られました。ですから、私たちの経験が霊的な導きや真実の基準を決めるのではなく、聖書こそが、私たちの経験を見極める最終的な基準なのです。

4. 良心は守りとなり、神のみことばは導きとなる(2テモテ 3:16–17、ヘブル 4:12)

聖書に忠実であろうとする心の動きは、聖書に基づく良心から生まれることがあります。それは主から与えられた助けであり、守りであり、賜物でもあります。

例えば、日曜日に落ち込んでいるように見える教会の兄弟や姉妹に声をかけようと思うことがあります。神のみことばは、「互いの重荷を負い合いなさい」「互いに慈しみを示しなさい」と教えています。その兄弟や姉妹に近づき、心からの気遣いを示し、どのように祈れるかを尋ねることができます。これは、神のみことばが私の良心に働きかけ、神に従うよう導くふさわしい表れです。

一方で、その兄弟や姉妹のところへ行って、「神さまが、あなたの様子を見て確かめるようにと言われました」などと言うのは適切ではありません。もしそのようにしてしまうなら、私は自分の見たことや抱いた思いを、みことばの具体的な適用にすぎないにもかかわらず、神からの啓示と同じ権威のものとして扱ってしまうことになるのです 。

これらの観点から見分けていくとき、相談者にどのような行動を勧めることができるでしょうか。

それは具体的にどのようなものでしょうか。

  • 神のみことばの学び手となりましょう 。
    みことばを通して神を知り、その歩みが日々着実に深められていくことを軽んじてはいけません。聖書の権威に従いましょう。神がご自身を私たちに現してくださったことに深く心を動かされ、そのことを覚えつつ、神のみことばを読み、理解し、信じ、愛し、そして従っていきましょう。
  • 聖書の明確な命令と警告に従いましょう。
    聖書がはっきりと命じ、警告していることには、しっかりと従いましょう。
  • 聖書が直接語っていない事柄に向き合いましょう。
    このような事柄については、聖書神学や組織神学を踏まえて判断しましょう。
  • 神のみことばに基づく知恵を求め、信仰に歩む人々の助言を求めましょう。
    神のみことばから知恵を学び、その助言に耳を傾けることが大切です。 このプロセスを判断の土台にしましょう。そうすることで、あなたの考えや思い、そしてあらゆる経験が、神のみことばに照らして正しく見極められるようになります。

【翻訳に関する留意事項】 本記事の日本語訳は、公認聖書カウンセラー協会 (ACBC)の許可を得て作成されました。ACBCは本翻訳の作成を承認しておりますが、翻訳の正確性、完全性、あるいは表現の適切性については、一切の責任を負いません。 内容に相違がある場合は、英語の原文が公式な正本として優先されます。原文はこちらからご覧いただけます。

Translation Disclaimer: This translation is produced with permission from the Association of Certified Biblical Counselors (ACBC). While ACBC has granted permission for this translation, they are not responsible for the accuracy or quality of the translation. The original English text remains the official version and can be found here: God Told Me To

聖書:新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

  • ポーラ・ヒグチ (Paula Higuchi) は公認聖書カウンセラー協会の認定カウンセラーであり、マウイ聖書カウンセリングセンターの所長を務めています。

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