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不平を言うとき、私たちが神について忘れている5つのこと
不平を言うことは、多くの人にとって当たり前になっています。しかし、それは罪です。それは、神の善さと主権を危ういほど軽く見ている心の表れなのです。
なぜ私たちは、「不平を言う」という罪を、お互いに見過ごしてしまうのでしょうか。誰もが時には気持ちを吐き出す必要があるという、世俗的な思い込みを受け入れてしまっているからでしょうか。あるいは、人の前で上辺を取り繕うよりも、「ありのままの自分」を見せる方が誠実だと信じているからでしょうか。「ただ本当のことを言っているだけ」「正直になっているだけ」といった言い訳です。それとも、不平を言えば何とか状況が変わると思っているのでしょうか。どのような理由であれ、神がみことばで不平について語っておられることを思えば、それらは結局、言い訳にすぎません。
出エジプト記16章では、イスラエルの民がモーセとアロンに対し、「自分たちを殺すために荒野に連れ出した」と不平を言いました(2-3節)。しかしモーセは、その不平が実際には主に向けられたものであることを指摘しています(7-8節)。また、ピリピ人への手紙2章14-15節で、パウロは、つぶやかないことがどれほど大きな意味を持つかを示すことで、不平の深刻さを浮き彫りにしています。つぶやきを拒むとき、私たちは「曲がってゆがんだ世代のただ中で、非難されるところのない純真な、傷のない神の子ども」となり、「世にあって光のように輝く」のです。つまり、不平は、世に対する私たちの証しを損なうのです。
神は決して不平を軽く見ておられません。私たちも軽く考えてはなりません。そのためには、まず不平とは何かを定義する必要があります。ロニー・マーティンはその著書『Stop Your Complaining』の中で、「不平とは、神がどのようなお方かを忘れることである」[1]と述べています。私たちは不平を言うとき、神のご性質や約束を心に留めることを第一にせず、罪深い不満を口にしてしまっているのです。では、不平を言うとき、私たちは神について何を忘れているのでしょうか。忘れていることは数多くありますが、ここではその中から五つに絞ってみましょう。
1. 不平を言うとき、私たちは神が究極の権威であることを忘れている
不平について、ウィリアム・バークリーは次のように問いかけています。「結局のところ、こういうことです。私たちは神を神として、すなわち、すべてのことを私たちの益とご自身の栄光のために治めておられる宇宙の主権者として認めているでしょうか。それとも、神を自分の都合に合わせてくださる存在のように考え、自分が最善と思うとおりに人生を導いてくださることを期待しているでしょうか。」[2]
神が神であり、私たちはそうではないということを心に留めるなら、困難な状況が訪れても不平を言うことはありません。むしろ、ガブリエルから「処女のまま神の御子を身ごもる」と告げられたマリアのように、神のことばを信頼して受け止めるでしょう。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」(ルカ1:38)。
2. 不平を言うとき、キリストにあって、神の豊かな恵みが注がれていることを忘れている
エペソ人への手紙1章3節で、パウロは神が「キリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」(強調は筆者)と記しています。しかし不平を言うとき、私たちはあたかも神が私たちを霊的に乏しいままにしておられるかのように振る舞ってしまいます。著者スティーブン・アルトロッジが言うように、「神の祝福の豊かな食卓から顔を上げ、不平を口にすることがどれほどあるでしょうか」[3]。しかし実際には、どれほど最悪な日であっても、神の驚くべき愛のゆえに、私たちは神に深く愛されている子どもであり、すべての尊い約束を与えられています。朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない相続財産に至るまで、神は信仰を通して私たちを守っておられるのです(1ペテロ1:4-5)。そして何ものも、神の無限の愛から私たちを引き離すことはできません(ローマ8:38-39)。
3. 不平を言うとき、神こそが私たちにとって最善をご存じであることを忘れている
望ましくない状況に直面すると、私たちは詩篇84篇11節にある「主は誠実に歩む者に良いものを拒まれません」という慰めに満ちた 約束を、つい忘れてしまいがちです。困難は決して心地よいものではありませんから、私たちはあたかも「何が自分にとって本当に良いことか」を自分で決められるかのように、不平を言ってしまいます。しかし、からだの快適さや周囲からの承認よりも、キリストに似た姿に変えられることのほうがはるかにすぐれています。神は、その目的を成し遂げるために、私たち一人ひとりのために「すべてのこと」を用いておられるのです(ローマ 8:28-29)。このことを心に留めるなら、私たちは不平を言う代わりに、信頼をもってこう言うことができます。「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」(ヤコブ 4:15)。
4. 不平を言うとき、神が私たちを不平の罪から解放してくださったことを忘れている
私たちはキリストの死と復活に結ばれているため、もはや不平を言う必要はありません。不平は避けられないものではありません。私たちは、神に喜ばれる言葉を選ぶことができます。事実、罪の支配する力は滅ぼされ、私たちは新しいいのちに歩む者とされました。ですから、私たちの生活のあらゆる場面で不平を捨て、代わりにキリストをあがめる満ち足りた心をもって歩むための力は、すべて与えられているのです(ローマ6:4-11)。
それゆえ、職場で皆が上司について不平を言っているときでも、神の恵みによって与えられている仕事であることを覚え、感謝をもって誠実に働くことができます(コロサイ3:23-24)。たとえ物価が上がったとしても、神がこれまで家族を養ってくださったことを思い起こし、これからも備えてくださることを信頼することができるのです。
5. 不平を言うとき、神ご自身こそが私たちの満足であることを忘れている
肉に従うとき、私たちは満足が状況次第だという嘘を信じてしまいます。そして、思い通りにならないと、喜びを奪われたかのように感じて不平を漏らします。 しかし真実は、どのような状況にあっても、神ご自身が私たちの満足であるからこそ、私たちは満ち足りることができるということです。神は決して私たちを離れず、見捨てることはありません(ヘブル13:5)。
詩篇73篇でアサフは、満足するためには安楽や富、成功が必要だと信じていました(12-14節)。しかし、悔い改めを経て、彼は神こそが「私の心の岩、とこしえに私の受ける分」であると正しく理解します(26節)。福音の最大の贈り物は、神ご自身です。「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。……それは、……あなたがたを神に導くためでした」(1ペテロ3:18)。
私たちが経験することのない望ましい状況は数多くあるでしょう。しかし、神との交わりから得られる深い喜びに比べれば、それらはすべて、真昼の太陽の下で懐中電灯をつけるようなものにすぎません。悲しいことに、不平はあまりにもありふれた罪です。しかし、それがあなたや私の歩みである必要はないのです。その解決の鍵は、私たちの偉大な神を思い起こすことです。すなわち、神がどのようなお方であるか、そしてキリストにおいて私たちのために何をしてくださったのかを思い起こすのです。不平を言いたくなるたびに、それに立ち向かうための神のみことばの真理があります。ただ、それを忘れないようにさえすればよいのです
[1] Ronnie Martin, Stop Your Complaining, p. 16.
[2] William Barcley, The Secret of Contentment, p. 52.
[3] Stephen Altrogge, The Greener Grass Conspiracy, p. 104.
【翻訳に関する留意事項】 本記事の日本語訳は、公認聖書的カウンセラー協会 (ACBC)の許可を得て作成されました。ACBCは本翻訳の作成を承認しておりますが、翻訳の正確性、完全性、あるいは表現の適切性については、一切の責任を負いません。 内容に相違がある場合は、英語の原文が公式な正本として優先されます。原文はこちらからご覧いただけます。
Translation Disclaimer: This translation is produced with permission from the Association of Certified Biblical Counselors (ACBC). While ACBC has granted permission for this translation, they are not responsible for the accuracy or quality of the translation. The original English text remains the official version and can be found here: Five Things We Forget About God When We Complain
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