あなたは原因不明の痛みや、医者が診断できないような病を抱えたことがありますか。ひどい痛みや体の不調が続くのに原因が分からない。町医者に行き、市民病院に行き、大学病院に行き、有名な専門医に診てもらっても原因が分からない。コンピュータ断層撮影(CT)や磁気共鳴画像装置(MRI)、最先端の医療機器を使っても何も映らない。痛みを訴えても、訴えても、誰も分かってくれない。しまいには痛みの現実を疑われて、心療内科やカウンセリングを暗に勧められてしまう・・・。自分のうちに確かな痛みを抱えているのに、その原因が分からず、他者からも理解されないのは非常に辛いことです。
心に原因不明の痛みを抱えていませんか?
そんな原因の分からない痛みを抱えた人たちが、実は日本に1億人以上いると聞いたなら、あなたはどう思うでしょうか。もちろん、これは身体的な痛みや病の話ではありません。心の痛み、霊的な痛みのことです。聖書には、人間は生きる目的と真理を探求する「霊的な存在」だと書かれています。人間を創造し、愛している神の存在を否定する人はみな、意識してもしていなくても、原因不明の心の痛み、霊的な渇き、虚しさを抱えています。心にどこか、ぽっかりと空いた穴があるのです。ある人たちは、その鈍い痛みに目をつむってがむしゃらに生き続けるかもしれません。別の人たちは、その痛みの理由を知りたいと思って、宗教や哲学的な探究をするかもしれません。でも、本当に心を満たしてくれるものは見つからないのです。
死にいたる病
聖書は、この曖昧で、しかし確かな痛みと虚しさがどこから来るのか説明しています。それは、神が希望にあふれたこの素晴らしい世界を創造したこと、人間は神に愛され、神を愛する素晴らしい関係性のために造られたこと。それなのに、人間が神に反逆し、すべての良いものの源である神との関係を自ら断ち切り、結果としてこの世界に苦しみと死が入ったからです。人間はすべて罪人であり、「死にいたる病」にかかっています。だから、人間は素晴らしい可能性にあふれたこの世界と自分たちの罪の間で葛藤し続けています。生きる目的を求めながら、心の充足を味わえず、何かがおかしいと思いながら生きています。
そして、世の中が喧伝する「自分を信じろ」「自分が思うように生きたらいい」「短い人生を楽しんだらいい」という価値観に身を任せて生きています。しかし、そのような生き方は、海水を飲むようなものです。飲めば飲むほど渇きが強まるだけです。決して真の満足は得られません。
聖書の診断
そう聖書はスバリ、あなたは自分の罪によってむしばまれていて、死にいたる病にかかっているのだと診断します。あなたが日常的に感じている苦しさ、虚しさ、心の痛みはその必然的な症状なのです。そして、神を否定し続け、悔い改めないなら、永遠の死が待ち受けていると警告します。
あなたはそれを聞いて不快に思うかもしれません。自分は確かに完璧ではないにしても真面目に生きてきたのであり、罪人などと呼ばれたくない。自分が永遠の破滅に向かっているという告知など、仮に事実でも聞きたくないと憤るかもしれません。でも、あなたは罪人であり、深刻な問題を抱えているという聖書の診断は、キリスト教が宣べ伝える「福音」(良き知らせ)の欠かすことのできない要素です。
冒頭に身体に原因不明の痛みに苦しむ人の例を挙げました。長年、体に不調を抱えていることを確かに感じながら、誰もそれを説明、診断できない不安、疑問、怒りの中に生きてきたのです。ある日、ついに名医に出会って、正しい診断を受けられたとしたらどうでしょうか。「あなたの病気は〇〇です。そして、治療法は〇〇です。治療は大変です。でも、希望はあります。一緒に頑張りましょう。」そう伝えられたらどうでしょうか。それがどんなに厳しい診断でも、それが難病でも、その告知を喜ぶのではないでしょうか。ついに、長年自分を悩ましていた問題を特定し、解決に向けた道のりを歩み出すことができるからです。
人間の現実
もう少し、聖書の診断を詳しくみてみましょう。使徒パウロは、ローマ人への手紙1章で、全ての人間は、神に造られた被造物として、創造主である神の存在を潜在的に知っているにも関わらず、その真理を抑圧することで自ら混乱の中を生き、罪深い生き方をしているのだと言います。
「というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。
彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。(中略)また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。
彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。」(ローマ人への手紙 1章18–24節、 28–32節)
ここでパウロは、全ての人はまことの神の存在と、自分を創造された方を拒否していると知りながら、その事実を無視し、自分を神とし、自分を正しいとしながら生きていると大胆に指摘しています。しかし、神を信じない人は皆、
- 「自分は正しく生きられる」と考えながら、正しく生きられない実態
- 真実の愛を求めながら、人を傷つけ、人に傷つけられる現実
- 快楽を求めながら、良心の呵責や死への漠然とした恐怖に襲われる矛盾
と向き合っています。そして、心に痛み、虚しさを抱えながら、それが何なのか十分に理解できないでいるのです。
唯一の治療法である「福音」
神のことばである聖書は、人間が抱えるこの霊的問題について、明確な診断と唯一の治療法を提供しています。聖書は全ての人間は罪人だと宣告します。永遠の滅びに向かっていると警鐘を鳴らします。しかし、それだけではなく、この死にいたる病に希望にあふれた治療法が存在すると教えます。
それはイエス・キリストの十字架を通した救いです。有名なヨハネの福音書3章16節に次のように書かれています。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
私たちは生まれた時から現在に至るまで、自分の罪によって、悪いことを考え、実行し、醜い感情を抱き、多くの人を傷つけて生きてきました。自分を創造した神を無視し、その面前で多くの罪を犯してきました。その自己中心的な生き方が積もり積もって心の底にドス黒い沈殿物を生んでいます。その黒いかげは、不治の病が進行するかのように、少しまた少しと心と良心をむしばんでいます。自分の罪で真っ黒に汚れた私たちは、きよく真っ白な神と親しく交わることなど二度とできず、光である神と隔たれた真っ暗闇で永遠に苦しむ、はずでした。
しかし、神は「そのひとり子をお与えになった」のです。そう、救い主であるキリストは十字架上で身代わりの死を遂げ、すべての罪責を一身に引き受けてくださいました。私たちの罪のしみをキリストが背負い、私たちは真っ白にきよめられます。キリストは「私たちの病を負い、私たちの痛みを担った」(イザヤ書53章4節)のです。
誰でも、神が備えてくださったこの救いを受け入れれば、罪が赦され、神との生きた交わりを回復できます。そして、そう、心にぽっかりと空いていたあの空洞に、初めて、温かい神の愛が流れこんでくる体験をします。神に創造された人間には、神にしか満たすことができない心の領域があるのです。
だからこそ、神は今日も福音を通してあなたに呼びかけておられます。「罪を認めて悔い改めよ!」「十字架による罪の赦しを受け取りなさい!」「わたしはあなたを愛しており、その心の空洞を埋めることができる!」どうか、まことの医者であるキリストに助けを求めてください。あなたは癒され、本当の憩いを味わうことができます。
聖書的世界観シリーズでは、聖書カウンセリングの土台となる聖書の世界観を説明します。第1弾「罪、その曖昧で確かな現実」では、アダムとエバによる人間最初の罪が描かれる創世記3章の講解を通して、人間の罪に焦点を当てます。人間がなぜ心にさまざまな問題を抱えるようになったのかを聖書に基づいて学ぶことは、効果的なカウンセリングを行う上で必要不可欠です。
【考えてみましょう】
- あなたが心に抱えている問題は何ですか?
- その問題の解決をどこに求めていますか?
- 「福音」はあなたの問題をどのように解決しますか?



