妻の「助け手」としての役割について、聖書的に理解するのが難しいと感じている方は、少なくないのかもしれません。このテーマについては、クリスチャンの間でも、さまざまな理解や意見があると思います。しかし、創造主である神は、ご自身の目的のために男と女を造られたことを、聖書を通してはっきりと示しておられます。

そこで今回は、「助け手」である妻と、「助け主」であられる聖霊を比較しながら見ることで、妻の「助け手」としての役割が、一般社会で考えられているような単なる補助的な意味ではないことを、少し詳しく考えてみたいと思います。もちろん、妻と聖霊を同一視するという意味ではありません。しかし、「助ける」という働きが神の前に尊いものであることを確認する助けになると思います。

「助け手」という言葉に生じやすい誤解

まず、「妻は夫の助け手である」と聞くと、いくつかの誤解が起こりやすくなります。

たとえば、「妻は夫より低い存在である」と考えてしまうことがあります。また、「妻は夫のしたいことや計画をただ支えるだけの存在である」と理解されることもあります。一般的な日本語では、「助け手」という言葉から、補助的な働きを思い浮かべやすいかもしれません。

また、「妻は夫の罪や愚かな判断にも黙って従うべきである」と考えてしまう場合もあります。しかし、聖書の「助け手」とは、そのような意味ではありません。創世記 2:18の「助け手」は、妻の価値の低さではなく、神が妻に与えられた尊い役割を示しています。

創世記 2:18に出てくる「助け手」

創世記 2:18には、次のように書かれています。

「人が一人でいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう」。

ここで用いられている表現は、ヘブル語でezer kenegdoです。

ヘブル語読み方基本的な意味
עֵזֶרezer / エゼル助け、救助、支え
כְּנֶגְדּוֹkenegdo / ケネグドー彼に対応する、彼に向き合う、彼にふさわしい

つまり、「ふさわしい助け手」とは、単に夫の仕事を手伝う人ではありません。それは、夫にふさわしく向き合い、神の目的を共に果たすために与えられた助け手という意味を持っています。

「助け手」は、低い立場を意味する言葉ではありません

ここで大切なのは、「助け手」という言葉が、低い立場を意味しているのではないということです。なぜなら、聖書では、神ご自身も「助け」と呼ばれているからです。

たとえば、詩篇には次のように書かれています。「主は私の助け、私の盾」(詩篇 33:20)。ここでの「助け」は、ezer(エゼル)です。また、詩篇 121:2には、次のようにあります。「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から」(詩篇 121:2)。

ここでも、ezer (エゼル )という言葉が用いられています。

詩篇 33:20や 121:2では、神ご自身がezer、つまり「助け」と呼ばれています。そのため、創世記 2:18は、妻が夫より低い存在であることを意味するわけではありません。神が「助け」と呼ばれているからといって、神が人より低い存在であるというわけではありません。そこで、神の助けの例をいくつか挙げてみましょう。

  • 力ある助け
  • 救い出す助け
  • 支える助け
  • 守る助け
  • 必要を満たす助け

従って、創世記 2:18の「助け手」も、妻を低く見る言葉ではありません。妻は、夫と共に神の目的を担うために造られた、尊い存在です。

もう一つの大切な言葉:kenegdo(ケネグドー)

ここでもう少しヘブル語のkenegdo(ケネグドー)について見てみましょう。この言葉は創世記2章の文脈から理解する必要があります。創世記2章では、神は「人が一人でいるのは良くない」と言われました。その後、動物たちがアダムのもとに連れてこられます。しかし、アダムにとって「ふさわしい助け手」は見つかりませんでした(創世記 2:20)。動物たちはアダムに対応するふさわしい存在ではありませんでした。つまり、アダムと同じ人間として言葉を交わし、思いや考えを分かち合い、結婚の契約関係に入ることができる存在ではなかったということです。

創世記 1:27が示すように、男も女も同じく神のかたちに造られた者です。そして創世記2章では、その女がアダムにふさわしく対応する存在として与えられたことが示されています。その後、神は女を造られました。そして、アダムはこう言います。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉」(創世記 2:23)。ここで、女はアダムにとって、次のような存在として示されています。

  • 同じ人間である者
  • 同じ神のかたちに造られた者
  • 彼に対応する者
  • 彼と人格的に向き合うことができる者
  • 結婚において一体となる相手(創世記 2:24)

したがって、kenegdo(ケネグドー)は、妻が夫より低い存在であることを意味するのではありません。むしろ、妻が夫にふさわしく対応し、言葉を交わし、思いや考えを分ち合いながら、結婚において共に神の目的を担う存在であることを示しています。

ヨハネの福音書14:16 に出てくる「助け主」

次に、ヨハネ 14:16の「助け主」について見てみましょう。イエスは弟子たちに、次のように語られました。「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなた方と共にいるようにしてくださいます。」

ここで、「助け主」と訳されている言葉は、ギリシャ語の παράκλητος(paraklētos)です。ご存じのとおり、旧約聖書はヘブライ語で書かれ、新約聖書はすべてギリシャ語で書かれています。

ギリシャ語読み方基本的な意味
παράκλητοςparaklētos
パラクレートス
そばに呼ばれた者、助ける者、弁護者、慰め主、励ます者

聖霊は信者に対して、共にいてくださるお方です。また、真理を教えてくださり、キリストのことばを思い起こさせてくださるお方です。さらに、真理へ導いてくださり、キリストを証ししてくださり、弱い者を支えてくださるお方です。

「助け手」と「助け主」は同じ意味なのでしょうか

ここは慎重に区別する必要があります。創世記 2:18 の「助け手」と、ヨハネ 14:16の「助け主」は、同じ単語ではありません。

箇所言語言葉対象
創世記 2:18ヘブル語ezer kenegdo
ヨハネ 14:16ギリシャ語paraklētos聖霊

もちろん、妻と聖霊を同一視してはいけません。ここで比較しているのは、「助ける」という働きが決して低いものではない、という一点においてです。妻は夫の救い主でも、夫を変える責任を負う存在でも、夫の良心や聖化の代理人でもありません。しかし、重要な共通点があります。

聖書において、「助ける」という働きは、低い働きではなく、尊く力ある働きです。

聖霊が「助け主」と呼ばれることは、「助ける」という働きが決して価値の低いものではなく、神の前に尊い働きであることを示しています。

役割の違いは、価値の違いではありません

三位一体の神において、父・子・聖霊は本質、栄光、力において完全に等しいお方です。同時に、救いの御業においては、それぞれ異なる働きをなさいます。父は御子を遣わし、御子は人となって救いを成し遂げ、聖霊は信者のうちに住み、キリストの御業を適用してくださいます。このことから分かるように、役割の違いは価値の違いを意味するわけではありません。

妻が「助け手」と呼ばれることも、妻が夫より低い存在であることを意味するわけではありません。むしろ、神のかたちに造られた者として、結婚において神から与えられた尊い役割を担っていることを示しています。

ただし、夫婦関係を三位一体と同一視することはできません。三位一体は唯一の神ご自身の神秘であり、夫婦関係は被造物である人間の関係です。しかし、三位一体に見られる「同等性と働きの区別」は、役割の違いが価値の違いではないことを理解する助けになります。

最後に

「助け手」という言葉は、妻を低く見るための言葉ではありません。むしろ、神が創造の初めから、結婚において妻に与えられた尊い役割を示す言葉です。

妻は夫の影に隠れて存在する者ではなく、夫にふさわしく向き合い、言葉を交わし、思いや考えを分かち合いながら、共に神の目的を担う者として造られました。

ですから、私たちは「助け手」という言葉を、一般社会における補助的な意味や文化的な男性中心の考え方からではなく、聖書そのものの文脈から理解する必要があります。

「助ける」という働きは、神の前に低いものではありません。それは、尊く、力ある働きなのです。

wife as helper

聖書:新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

  • ACBC認定聖書カウンセラー。マスターズ大学(The Master’s University)大学院にて聖書カウンセリングの修士号を取得。フロリダ州在住。教会での聖書カウンセリングに携わりながら、トレーニングや資料作成、英日翻訳を通して、日本語での聖書カウンセリングの普及に取り組んでいる。

上部へスクロール